和泉式部が初代住職だったお寺(誠心院) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

  前回からの続きです
(令和元年9月28日のことになります)

蛸薬師堂から更に新京極通りを上がっていきます
次の順番のとこ(西光寺)がまだ開いてなかったか、通り過ぎてしまったため、門が開いていた次の次の誠心院へやって来ました
住所・中京区新京極通六角下ル中筋町487
ご利益・知恵授け・恋授け

駒札
 華嶽山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、才色兼備で知られる平安時代の代表的な女流歌人、和泉式部を初代住職とする。
 寺伝によれば、関白藤原道長が、娘の上東門院【じょうとうもんいん・藤原彰子(しょうし)】に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる。当初、御所の東側(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫などにより一条小川(上京区)に移築再建され、更に天正年間(1573~1591)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された。
 本堂は小御堂(こみどう)と呼ばれ、堂内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。境内には、和泉式部の墓と伝える宝篋院塔及び和泉式部の歌碑が建てられている。また、傍らの梅の木は、式部が生前愛した「軒端(のきば)の梅」にちなんで、後に植えられたものである。
(原文のまま)

門の左手にありましたが、文字が全部は読めない( ̄▽ ̄;)

門をくぐったとこの右側には和泉式部に関するものが展示されていました


少し長くなりますが、和泉式部のことがよく分かるので抜粋して書いておきます
和泉式部は、天延2(974)年から天元元(978)年の間に生まれる
(令和2年6月8日嵯峨嵐山文庫館にて撮影)
平安中期の歌人
中古三十六歌仙の1人
父は大江雅致(まさむね)
夫は和泉守の橘道貞
父の官名と夫の任国とをあわせて和泉式部と呼ばれる

冷泉天皇の皇子である為尊(ためたか)親王と恋をしますが、為尊親王は長保4(1002)年に死去
そこ死後、弟の敦道(あつみち)親王と恋に落ちますが、彼もまた寛弘4(1007)年に早世しました
和泉式部日記は敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記
他に歌集として、「和泉式部正集」「和泉式部続集」など
拾遺和歌集などの勅撰集に246首の和歌を採られ、後拾遺和歌集では最多の歌が選ばれている

寺伝では、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)
(令和2年6月8日嵯峨嵐山文庫館にて撮影)
に先立たれた和泉式部は、この世の無常を感じ「女性往生」のすべを求めて書写山円教寺性空(しょうくう)上人をたずねます。誓願寺の本尊・阿弥陀如来の霊験を教えられ、四十八日のお籠りの末、「女人の身でも南無阿弥陀仏と一心にお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる」との教えを受けます。その後も誓願寺に参る以外は念仏三昧の日々を送り、その甲斐あって二十五菩薩に迎えられ弥陀の浄土へ往生しました。
それ以後、女人往生を願う人があれば、和泉式部が歌舞の菩薩とお迎えに来てくださるという信仰が盛んになります
(原文一部抜粋)
小式部内侍の歌も百人一首に採用されています
おおえやま いく野の道も とおければ まだふみも見ず あまのはしだて

そこを抜けると正面に本堂
顔出しパネルもありましたよ爆笑

その裏には旧?の駒札

本堂の右手に水かけの行者さん

本堂はけっこうデカイですびっくり

宝篋院塔の解説

境内図のアップ
地図にあるように、庫裏は本堂にあります
御朱印はそちらで頂けます

和泉式部の墓(宝篋院塔)

こちらで頂いた御朱印です

こちらは御詠歌ではなく、和泉式部の和歌となります
何種類かありました
こちらは全て書き置きだったと思います

由緒書き

誠心院を出て、新京極通りを上がって行きます
その新京極についての駒札がここにもありました
前にも書いてるので、今回は割愛

新京極通りはご存知のように、京都市内で一番賑やかな商店街だと思います
ただ開店時間は10寺以降のとこが多いでしょうから、それまではこんなものです😁

新京極御朱印めぐりは続きます😆
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ