ポール・ケネディーの『大国の興亡』の下巻を紹介する。  『大国の興亡』の下巻は、第一次世界大戦 | 松陰のブログ

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ポール・ケネディーの『大国の興亡』の下巻を紹介する。

 『大国の興亡』の下巻は、第一次世界大戦終了から米ソ冷戦時代までの話が書かれています。第一次世界大戦終戦後、ヴェルサイユ条約が締結されました。ドイツは広大な植民地を失って、それらは自治領となり、あるいはイギリス及びフランスが委任統治することになりました。さらにドイツは巨額の賠償金を課せられました。この巨額な賠償金に関しては、イギリスの経済学者のケインズは反対していました。しかし、ケインズの反対は受け入れられず、この巨額の賠償金が後の第二次世界大戦に結び付きます。第一次世界大戦の教訓から国際連盟が発起され、国際秩序の安定を図ろうと試みますが、提唱国にも関わらず、自国のモンロー主義のために参加できなかったアメリカ合衆国、ロシア革命直後のために参加できなかったソビエト連邦など、設立当初から問題を抱えていました。アメリカ、ロシアの不参加で、第一次世界大戦で甚大な被害を受けたにも関わらず、イギリスとフランスが国際連盟内で主導権を握り、国際舞台の立役者の地位は揺るぎませんでした。一方、アメリカ上院がヴェルサイユ条約批准を否決したため、フランスは事実上、イギリスとアメリカから軍事的な支持を受けられなくなりました。フランスはその代わりとなる安全保障を模索したのです。この時代は厳しい経済外交が展開された時期でもあり、ドイツが賠償金を支払わなければ、協商国側もアメリカから借り入れた戦費が払えなくなります。そのため、勝者と敗者の間だけでなく、アメリカとかつてのヨーロッパ連合国との関係まで悪化していました。

 1920年代半ばにはいかにも安定しているかに見えた世界経済の金融及び商業上の基盤が、第一次世界大戦以前に存在したそれよりもはるかに不安定でした。その頃には、ほとんどの国で金本位制が復活していましたが、ロンドンのシティに支えられていた1914年以前の国際貿易及び国際金融の微妙なメカニズムは復活していなかったのです。ヨーロッパが外国からの負債を増やし、アメリカが世界最大の債権国になるにつれて、1914年から19年の間に世界の金融の中心は大西洋を越え、当然、アメリカに移りました。アメリカの経済機構は全く異なっていました。外国との貿易をあまりあてにせず、世界経済にはなおさら関わろうとしないで、自由貿易よりも保護貿易主義に傾いていました。イングランド銀行に匹敵するような金融機関もなく、好景気と不景気の変動が激しかったのです。アメリカの好景気は、1929年10月に「ウォール街の大暴落」で終わりを告げます。アメリカの貸し出しはさらに減少し、その後、連鎖反応的に起こった事態に手の施しようがなくなりました。そこで、かなりの額の貿易黒字を計上する唯一の国であるアメリカで極端な保護貿易主義を打ち出すスムート・ホーレイ関税法が定められました。そのために他の国にとってドルはいっそう入手困難になり、当然のなりゆきとして報復措置がとられました。これはアメリカの輸出に大きな打撃を与えることになります。こうして全世界に厳しい不況の波が広がり、多くの失業者があふれ、国際政治にはそれによる好ましくない影響から逃れる術がありませんでした。

 世界恐慌は、イギリスの貿易形態に基づくポンド・ブロック、フランスが率いる金ブロック、日本に依存した極東の円ブロック、アメリカが率いるドルブロックとブロック経済を助長させました。ドイツではアドルフ・ヒトラーが自給自足の千年帝国を築きあげる計画にとりかかり、外国との貿易は特別取引とバーター協定を結んだ国だけに限るつもりでいました。ドイツではナチス党、イタリアではムッソリーニの率いるファシスト党が政権を握り、ファシズム運動が台頭してきます。また、アメリカのウィルソン大統領が14か条の平和原則で提唱した民族自決という考え方が、アフリカの独立運動の発展に併せ、ドイツにチェコスロバキア、ポーランド、オーストリアに住むドイツ人系住民保護というヨーロッパ侵攻の大義名分を与えてしまいます。ドイツのナチ政権を強大なものにしてしまった原因のひとつに、イギリスのボールドウィンやチェンバレンとその閣僚による宥和政策が挙げられます。ソビエト連邦の誕生にあわせ、共産主義に対する嫌悪感からドイツのナチ政権に対して宥和政策を取り、ナチスの戦力の向上に対する時間的な猶予を与えてしまったのです。1939年の春も末になって、ヒトラーのポーランドに対する圧力を強め始め、1939年3月にドイツがチェコスロバキアの残りを併合し、一ヶ月後にイタリアがアルバニアに侵入すると、民主主義国家は「ヒトラーを阻止せよ」という強い世論に突き動かされるようになります。こうして、第二次世界大戦が始まり、イギリスとフランスが、1914年と同様にドイツと対決することになりました。イギリス、フランス、アメリカを中心とした連合国と、ドイツ、イタリア、日本を中心とした同盟国が対決しました。当初、この戦争は連合国側が不利でしたが、1941年にヒトラーが独ソ不可侵条約を破棄して、ソ連に侵攻したことで、一気に戦況が一変します。1941年12月にモスクワでソ連が反撃に転じ、少なくともドイツの電撃戦が失敗したことが裏書されました。1945年、日本がアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、降伏文書に調印したことにより、第二次世界大戦は終焉します。

 第二次世界大戦後、国際連盟の失敗を踏まえ、アメリカも参加した国際連合が設立されました。第二次世界大戦後は、イギリスの名宰相・チャーチルが演説で語ったように、鉄のカーテンが引かれ、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義圏とソビエト連邦を盟主とする共産主義圏が対立する東西冷戦が始まります。二極化世界の到来です(また、パックス・ブリタニカからパックス・アメリカーナへの移行)。ヨーロッパは第二次世界大戦において戦地となり、疲弊しきっていました。この西ヨーロッパと日本の経済を救ったのが二極化世界だったとも言えます。アメリカはソビエト連邦に対抗するため、マーシャル・プランを提示し、西ヨーロッパ経済(日本も含め)の復興を支援します。そう考えると、アメリカがソ連に対抗心を持たなかったら、これほど早く西ヨーロッパと日本の復興があったかどうかは疑問です。国が対立する時、対立した当事国はデメリットが多く、逆に、第三国がその対立の恩恵を被ることが多いのです。日本も朝鮮戦争などの他国の戦争の恩恵で特需が起こり、戦後の高度経済成長を達成しました。また、ソ連との対立から日本をソ連への防波堤にしたいというアメリカの思惑からサンフランシスコ講和会議にて、日本は早期の国際社会復帰を成し遂げました。西ヨーロッパも冷戦構造の恩恵でマーシャル・プランが実施され、早期の経済復興を達成することができたのです。これは西ヨーロッパと東ヨーロッパの経済格差を生むことにもなりました。

 ソ連の社会主義国家は崩壊します(『大国の興亡』ではそこまでは記載されていません)。社会主義は、万人の平等を目指すという意味で、思想自体は決して悪いものとは思えませんが、現実的ではないと思います。平等に財の分配をするのが、一部の特権階級の人間の手で行われるということです。ソビエトの崩壊は、平等を目指すはずが、一部の特権階級には物資が回るが、労働者層などの一般市民には物資が回らないということになったことです。一部の特権階級は非常に裕福であるにも関わらず、一般市民は平等に貧乏という皮肉な結果をもたらしました。二極化された階層を生み、それは、特権階級の人間が財の分配にお手盛りを繰り返したため、思想通りの国家にはならなかったのです。当時の日本が一億総中流階級と呼ばれ、万人が一定の幸福を享受できたことと比較すると対照的です。特権階級の人間が行った財の分配へのお手盛りによる貧富格差は一般市民の労働へのモチベーションの低下と創造性の喪失を生み、国家の崩壊へと結びつきました。ソビエト連邦等々の社会主義国家が独裁国家だったというのは、スターリンの粛清、文化大革命を見れば明らかで、スターリンの粛清、文化大革命がその後のソビエト連邦などの経済発展に悪影響を及ぼしたことは周知の事実です。

 ポール・ケネディー氏は、大国の衰退する要因に、その国の能力以上に手広く国家支配をする時に衰退が始まると述べています。ウォルター・リップマン氏の言葉を借りて、「国の負担と国の力・・・・・のバランスを取る」ことが大事だと提示しています。かつての「ナンバーワン」諸国のジレンマが直面した共通のジレンマは、相対的な経済力が低下し、海外からその地位を脅かされたために、より多くの資源を軍事面に投入することを余儀なくされた結果、生産部門の投資が圧迫され、長期的には成長率の著しい低下、重税、支出の優先順位を巡る国内の意見対立によって、防衛面での責任負担能力が低下するというものです。大国は、常に大砲(軍事支出)を購入すべきか、バター(経済への投資)を購入すべきかの囚人のジレンマに悩まされ続けるのです。この他にもこの『大国の興亡』にはたくさんの興味深い記述がありました。非常に勉強になりました。