ポール・ケネディー著の『大国の興亡(上巻)』という書籍を紹介する。 「祇園精舎の鐘の声、諸行無 | 松陰のブログ

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ポール・ケネディー著の『大国の興亡(上巻)』という書籍を紹介する。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の 響き有り。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。 奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し」(出典・『平家物語』)。どこの国でも栄枯盛衰は世の常のようです。では、国家はどのように繁栄し、どのように衰退するのでしょうか。それを教えてくれるのが、このポール・ケネディー氏の『大国の興亡』という書籍です。

『大国の興亡』は、1500年から2000年までの世界の経済変遷と軍事闘争について書かれている書籍です。組織(国家)の栄枯盛衰を分析しているのですが、企業にしろ、国家にしろ、生物にしろ、ライフサイクルというものがあり、栄枯盛衰は必須の出来事のように思えます。製品にも導入期、成長期、成熟期、衰退期というライフサイクル(『競争の戦略』M・ポーター著 217頁参照)があり、国家や企業などの組織との類似性を感じます。

『大国の興亡』の上巻には、欧州が世界の覇権を取る前の、中国の明王朝、イスラムのオスマン帝国、インドのムガル帝国の繁栄から産業革命を迎え、世界の主権を握った欧州、そして第一次世界大戦の終焉までが書かれています。現在の欧州も、米国、中国と共に世界の中心におりますが、16世紀以前の欧州は決して世界の中心にいる国家ではなく、逆にアジアに憧れを抱く地域でした。

 ポール・ケネディー氏に拠れば、16世紀の欧州の地域が政治的に分断していたことが後に繁栄した要因だと述べています。個々の国家に自律性があり、競争と協調の綾が欧州の進化を支えていったのです。そのことは、進化できなかった中国の明の原因に儒者による官僚体制の下での極端な保守主義を挙げていたり、オスマン・トルコの衰退が国家、国民の創意や異議申し立て、商業活動を中央集権や専制から来る体制による厳しい権威主義が阻んだことを挙げていたり、ムガル帝国の衰退がカースト制度のために創意が生かされず、因習がはびこり、市場活動が制限され、インド社会でいかなる種類のものであれ急激な変化を阻止する制度があったことを要因に挙げていることに表れています。

 一方、欧州は常に隣国への脅威にさらされていたため、国内の成長が国家存亡への重要な要因となっていたため、国内だけを保守的な体制で抑え込むが不可能だったのです。欧州の政治的な多様性は地理的な特性に負うところが多いとのこと。欧州は地理的に分断されていて、人々は山や広大な森林によって隔てられていた谷あいのあちこちにかたまって住んでいました。気候も北と南、東と西では相当に違っています。いかに強力な領主が努力しても統一的な支配を確立することが困難であり、さらにモンゴルの遊牧民のような外部からの侵略者が入って来ても全土を蹂躙される可能性が低かったのです。ひるがえって、この地理的な多様性が成長を促しました。常に権力の中心が各地に分散し、地方の王国や辺境図は常にパッチワークのキルトにも似ていました。

欧州の進化は国家間の柔軟な協調関係にあったように思えます。1500年から1世紀半、大陸各地にスペインとオーストリアのハプスブルク家に支配された王国、公国、領土が広がり、ハプスブルグ家の政治及び宗教上の影響力が欧州全土を支配しそうな勢いでした。ハプスブルグ家の帝国支配が強まりそうになると、カール五世(ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝。スペイン王としてはカルロス一世と呼ばれています)に対立する北ドイツの諸侯、トルコ、フランスのアンリ二世が警戒心を募らせ、ハプスブルク家の勢力拡大を阻止しました。スペインのフェリペ二世がポルトガルを併合し、権力を強化すると、イギリス、フランス、ユトレヒト同盟国がスペインに対抗し、勢力の拡大を阻止しました。特にエリザベス1世のイギリスはスペインの無敵艦隊を撃破し、スペインの制海権は揺らぎました。

 オランダが勢力を拡大すると、イギリスとフランスが立ちはだかりました。イギリスとフランスに挟まれて、オランダの立場は難しくなり、多額の債務不履行に直面し、国内の分断に悩み、全世界を舞台に展開する植民地戦争や貿易競争に敗退しました。ナポレオンが率いるフランスが欧州支配の頂点に立つと、今度は、イギリス、スペイン、ロシアが対抗した。ナポレオンの「大陸体制」の下、貿易禁止になっていたイギリスは窮地に追い込まれるが、スペインのフランスへの反乱を契機に形勢は逆転します。ナポレオンの不運はイギリス国内で産業革命が進行していたことです。イギリスは新しい富の蓄積のお蔭で重い負担にも耐えやすくなり、国の規模と人口で劣るにもかかわらず、優位に立つかに見えたナポレオン帝国よりも容易に戦費を賄うことができたのです。ナポレオンの野望はイギリス、スペイン、ロシアによって阻まれます。フランスの敗因のひとつには保守的な経済が挙げられます。フランスはアンシャン・レジーム体制の下、高所得者優遇と低所得層への負担が大きかったことが国内の経済を衰退させていったこと。国内の直接税は嫌われ、タバコ税や塩税などの間接税を復活させて市場を不活性化させました。国内市場が不活性化した状況をナポレオンは制服した国からの賠償金などの掠奪で賄っていたのです。オーストリアの反乱に見られるようにナポレオンに征服された国家がフランスに強い不満を持っていたことが、ナポレオン帝国の最大の敗因だったのです。