堂目卓生著『アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界―』という書籍を紹介する。
アダム・スミスというと『国富論』が有名ですが、堂目卓生氏著の『アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界―』を読んで、真に重要なのは『道徳感情論』の理念なのではないとかと思いました。また、今まで想像していたアダム・スミスのイメージが変わりました。『アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界―』は本当に有意義な書籍でした。
この書籍で一番、感銘を受けたのは、「胸中の公平な観察者」という概念です。スミスに拠れば、私達が自分の感情や行為の適切性を測る基準として求めるのは、利害関心のない、「公平な観察者」の是認です。私達は、自分の感情表現や行為について、親や友人など、親しい人から「あなたは正しい」と言われるならば、嬉しいと思うでしょう。しかしながら、同時に、そのように言ってもらえるのは、その人が私に対して特別な愛着や好意を持っているせいであるかも知れないと思うでしょう。反対に、自分に対して明らかな敵意を持つ人から、「あなたは間違っている」と言われた場合、私達は、その時はショックを受けるかも知れないが、冷静になれば、そのような非難は公平さを欠いたものであり、問題にする必要がないと思うでしょう(34頁参照)。
つまり、人間は、言葉を文脈の中で解釈しているということです。例え、批判したとしても、その批判した人間とどのような関係なのか、その人間がどういう感情なのか、その人の利害は何か、その人の性格等々の背景を考慮しながら言葉の意味を判断しているということ。悪意を持っている人間が批判したとしても、それが本当に悪いことなのかは疑問であり、逆に、敵意や利害があれば本当は良いことである可能性が高いということです。言葉は文脈によって意味が変わります。私達に自分の感情や行為の適切性について確信を与えてくれるのは、私と利害関係にない、そして私に対して特別な好意や敵意を持たない公平な観察者だけです。私達は、観察者としての経験、そして当事者としての経験を通じて、自分が所属する社会において、公平な観察者達が実際に他人の感情や行為をどのように判断するかを学びます。そして経験によって得られた知識に基づいて、私達は、自分の感情や行為について、公平な観察者であれば、どのような判断を下すかを想像し、自分の感情や行為を公平な観察者が是認すると思われるものに合わせようとします。このようにして、私達は、自分の胸中に公平な観察者の基準を形成し、その基準に基づいて自分の感情や行為の適切性を判断するようになるのです(34頁参照)。この概念は『道徳感情論』に提唱されています。実に人間の内面に潜む判断基準の原則を的確に捉えています。人間の意思決定の原理を提示しているのです。確かに、人間には自己嫌悪というものがあります。「胸中の公平な観察者」がいるから自己嫌悪になるのでしょう。自分で自分が好きになるということは、「胸中の公平な観察者」に是認されているということなのかも知れません。
アダム・スミスの有名な「見えざる手」の概念も、この「胸中の公平な観察者」という概念を土台に成り立っています。より多くの報酬を得ようと思うのならば、自分と同種の世話を提供する他の人よりも、より質のよい世話を、より安く、そしてより多く提供しなければなりません。このようにして、市場において競争が起こります。競争は必ずしも全体にとって悪い結果をもたらすものではありません。競争を通じて、質の悪い世話、高くつく世話が市場から排除され、質のよい世話が、安価に、そして豊富に提供されるようになります。競争は互恵の質を高め、量を増やします。しかしながら、そのことが保証されるためには、競争はフェアプレイのルールに従わなくてなりません。つまり、競争者は、虚偽、結託、強奪を行なわず、正義のルールに従って行動しなくてはなりません(164頁参照)。市場社会(商業社会)はフェアプレイを受け入れる正義感と、交換を可能にする交換性向、そして説得性向によっても支えられています。正義感、交換性向、および説得性向は、同感という人間の能力に基づいているのでありますから、市場社会を支える根本は、自愛心とともに同感(他人の諸感情を自分の心の中に写しとり、それらと同様の感情を引き出そうとする情動的能力)であると言えます(166頁参照)。つまり「胸中の公平な観察者」が市場社会の根幹を支えると述べているのです。「見えざる手」とは、市場の価格メカニズムを意味します。スミスは、個人の利己心は、市場の価格メカニズムを通じて、公共の利益を促進する(互恵の質を高め、量を拡大する)と考えていました(171頁参照)。しかし、「見えざる手」と言うと、好き勝手にしていても自然と良好な状態に落ち着くように思われていましたが、先に述べたように、正義のルールという前提を強調している点に、好き勝手だけでは市場が機能しないということをスミス自身が考慮していたことに注意しなくてはなりません。余談ではありますが、「見えざる手」という言葉は、『国富論』の中で一回し使用されていないそうです。「個人はこの場合にも、他の多くの場合と同様に、見えざる手に導かれて、自分の意図の中にはまったくなかった目的を推進するのである」という文中に一回しか使われていないそうです。有名なので何回も使われているように思われますが、言葉は一回しか使っていないのですね(170頁参照)。ちなみに、『道徳感情論』でも「彼らは、見えざる手に導かれて、大地がそのすべての住民の間で平等な部分に分割されていた場合になされただろうのと、・・・・」という文中に一回しか使われていないそうです(88頁参照)。
スミス自身は、理想として、「自然的自由の体系」を掲げていました。しかし、自然的自由の体系はゆっくりと時間を掛けて、慎重に行うものだと述べています(245頁参照)。スミスは、私達が現実問題に対応する時、今なすべきことと、そうでないことを見分けることが重要だと考えていました(276頁参照)。TPOを重視したのです。『アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界―』という書籍は、哲学的な部分において、とても勉強になる書籍だと思います。書ききれないほどに学ぶべきものがありました。特に、規制を撤廃し、利己心に基づいた競争を促進することによって、高い成長率を実現し、豊かで強い国を作るべきだという従来のスミスのイメージとは異なるアダム・スミスの実像を知れたことは、何よりもの収穫でした(279頁参照)。