守屋洋著『兵法三十六計』という書籍を紹介する。 私は汚いやり方が大嫌いです。私は真面目な性分な | 松陰のブログ

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守屋洋著『兵法三十六計』という書籍を紹介する。

私は汚いやり方が大嫌いです。私は真面目な性分なのでこのことは仕方がないことです。性善説、性悪説はどちらも間違えとは言えません。人間には心優しき心があれば醜い心もあります。先日、テレビのドッキリ番組を観ていると、人を騙すためにニセの新聞紙まで用意していました。その他、人を騙すために手の込んだことをしています。テレビの持つ最高水準の技術を駆使して、人を騙すという目的のために惜しみもなくつぎ込んでいました。また、最近、振り込め詐欺などの汚い犯罪も多発しています。特に、今回の東日本大震災の被災者を装って善良な市民から金を巻き上げようとしている卑劣な犯罪も起きています。その他、この東日本大震災に乗じた火事場泥棒のような事件も起きました。人道的に絶対に許されない行為です。このように私が正しい道を説いても必ず対極にある悪の道は存在します。それは、まるで陰陽五行説における「陽」と「陰」の関係のように。古代中国人は陰と陽というあい対する極を導入し、周期性の概念に明確な構造を与えました(『ターニング・ポイント』 フリッチョフ・カプラ著 46頁参照)。このように事実として、人を陥れる世界は存在するのです。その際、自分が陥れられないためにも、その策略の手口を知っておくことは必要です。守屋洋氏著の『兵法三十六計』という書籍の中にも、「世の中には「信」に欠けた人間がたくさんいる。そういう手合いにまで「信」をもって接しようとすれば、はめられたり、ひっかけられたり、いずれにしてもろくな結果にはならない。少なくとも、そんな連中の仕掛けてくる手口ぐらいは心得ていないと、厳しい現実は生き残ることができないのである」(243頁参照)と述べられています。

第三十三計・反間の計。反間の計とは、ニセの情報を流して敵を離間したり、敵の判断を惑わしたりする策略です(220頁参照)。劉邦が項羽と軍師の范増とを離間させた事例を挙げていました。范増自身は何も悪いこともせず、項羽に忠誠を尽くしていながらも、敵方の巧妙に謀られた嘘により、項羽から敵視されてしまうことに、人間の猜疑心の恐ろしさを感じました。第三計・借刀殺人。借刀殺人には、二つの側面があります。一つは、自分の手は使わず、第三者の力を利用して敵をやっつけること。もう一つは、第三者の力を利用するのではなく、敵を利用して敵をやっつけることです。すなわち、敵の力、敵の経済力、敵の知謀などを巧みに利用して離間の策を講じ、敵を崩壊に追いやることです(34頁参照)。以上のような36個の戦略・戦術が解説してありました。

この第三計・借刀殺人のケース・スタディーとして、「孫権を利用した曹操」、「恒公が鄶国王を騙した話」、「ヒットラーの陰謀」、「ソ連の外交戦略」が掲載されていました。私はこの計を読んで、関ヶ原の戦いを想起しました。関ヶ原の戦いにおいて、東軍の徳川家康の味方についたのは、加藤清正、福島正則、前田利長、山内一豊、細川忠興等々、ほとんどが豊臣の家臣でした。北の政所を通じて、亡き豊臣秀吉の家臣を味方につけたのです。そして、関ヶ原の戦いで、石田三成ら西軍の豊臣の家臣と先に挙げた東軍の豊臣の家臣を戦わせたのです。俗説ですが、徳川家康は、自分が天下を取った後のことを見据え、豊臣家の力を落とすため、作為的に豊臣家同士の戦いを画策したと伝えられています。関ヶ原で戦った家康が率いる東海道隊本隊は、豊臣家の大名が多く、秀忠が率いた中仙道隊には徳川家の大名が多かったと聞きます。その徳川秀忠が率いた中仙道隊は信濃国(長野県)で真田昌幸と戦い、上田城を攻略し損ね、結局、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。そのため、関ヶ原の戦いは豊臣家臣同士の戦いになってしまったのです。しかし、秀忠が関ヶ原の戦いに間に合わなかったのは、徳川家の勢力を温存し、関ヶ原の戦いでは徳川の大名は参加させないという魂胆があったという俗説があります。敢えて、秀忠を関ヶ原の戦いに待ち合わせなかったという話を聞いたことがあります。真相は分かりませんが、結局、この関ヶ原の戦い後、豊臣家の権威は陥落し、徳川家は軍事的にも豊臣家と大きな差をつけて全国を統治できるようになりました。まさに借刀殺人です。

第五計・趁火打却(趁火打却とは、もともと人の弱味に付け込んで押し込み強盗を働く、つまり火事場泥棒の意味。相手の弱味につけこみ、嵩にかかって攻め立てること)の箇所を読んで(51頁参照)、私の先祖である平家一門のことを思い出しました。平治の乱で勝利を収めた平清盛は、その情け深さから、戦った源義朝の子、頼朝、義経、義範を助けてあげてしまいました。結果、助けた頼朝、義経、義範によって平家は滅ぼされてしまったのです。平家って根が優しいだよね。非情になれないというか。私も平家のお人好しの血を引いていることを頻繁に感じています。

第十五計・調虎離山(自然条件に恵まれた山に生息している虎は始末におえない。そういう虎を退治するには、まず山から誘き出さなくてはならない)の計では、虞詡の計、韓信の計のケース・スタディーが掲載されていました(109頁参照)。私は韓信という軍師も好きです。韓信は股夫と嘲られましたが、そんな小さなことは気にせず、志を成就させたのです。韓信がいなければ、劉邦が項羽を倒して、漢が天下統一することはなかったでしょう。調虎離山の計を読んで、私は大坂の役を思い出しました。大坂の冬の陣において、真田幸村の活躍と大坂城の堅固な守りに苦戦した徳川家康は、浅井(あざい)家、柴田家での生活で落城を体験している淀殿の弱味につけこみ、和議を持ちかけました。和議では外堀だけを埋めるはずでしたが、この機に便乗して内堀まで埋めてしまいました。これに淀君は激怒しました。そして、大坂の夏の陣が再戦されたのです。内堀を埋められた大坂城はもはや城としての機能はせず、真田幸村の活躍はあったものの豊臣家滅亡という結果に終わってしまいました。まさに調虎離山の計です。

『兵法三十六計』における最も望ましい勝ち方は、「戦わずして勝つ」です。なぜ「戦わずして勝つ」のが望ましいのか。それは、武力で戦えば、味方も損害を免れないこと。今日の敵も明日の味方につく可能性があることです(3頁参照)。戦争をすれば、必ず戦費がかかります。私の大好きなイギリスにおいて、大英帝国と呼ばれ、七つの海を制覇していた時代に、フランスとの戦争のため多額の国債を発行しました。その財政を立て直すため、アメリカ植民地に課税をせざるをえなくなり、結局、アメリカを独立させてしまったといいます。つまり大英帝国はフランスとの戦争における負担がアメリカの独立戦争を引き起こすという結果を招いてしまったのです(『アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界―』 堂目卓生著 233頁参照)。大英帝国ですら戦争が負にしか影響を及ぼさなかったのですから戦争はなるべく避けなくてならないものなのでしょう。