星野克美氏著の『消費の記号論』という書籍を紹介する。 消費社会における不可解な現象、ある意味で | 松陰のブログ

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星野克美氏著の『消費の記号論』という書籍を紹介する。

消費社会における不可解な現象、ある意味でばかばかしいとさえ思われる流行現象を解く鍵は<物=商品>に対する考え方の変化です。消費者行動というのは本来、経済的現象であり、消費の対象となる<物=商品>は、その商品の品質、性能、機能といった有用性によって形成される物的価値であると考えられてきました。ところが、人間と文化のかかわり方が多様化し、消費そのもののモチベーションも複雑になってくると、単なる経済現象として「消費」を捉えるだけでは不可能になってきます。近代の経済合理性という観点だけでは、“成熟市場”における消費の意味は捉えられないのです。マーケティング的に言うと、モノの本来的な物的価値よりも感覚価値への視点から、記号論的に言うと、商品の記号性といった観点から「消費社会の構造」を捉え直さなくてはならないのです。ほとんど飽和状態に達した消費財市場では、こうした感覚価値、あるいは商品の記号性といったものが、他の商品とは異なるという“差異性(差別性)”を生み出す鍵となるのです。言葉をかえて言えば、消費の対象となる<物=商品>の価値は、有用性によって形成される価値よりも、商品に付与された意味、とりわけ差異化された意味の記号性によって形成される記号的価値(感覚価値)にあるといってもいいのです(12頁参照)。

「消費」というものを、こうした価値の転換として見直す時、“神話”的な不可解な消費現象として捉えることが可能になってきます。消費現象を“神話”と呼ぶのは、それが具体的には次の三つの特徴をもっているからです。まず第一は、それが近代合理性に対して「非合理」の側面をもっているという意味において“神話”なのです。近代科学における経済学(マルクス経済学も近代経済学も含めて)の考え方には、消費者行動を合理的行動として捉えるという大きな前提がありました。ところが、現実の現象をみると、経済学の前提となっている合理性だけでは捉えられない要素が極めて多いのです。つまり、合理的立場からみると実に不可解な側面があって、それを修辞(レトリック)の上で“神話”と呼びたいわけです。第二には、消費行動そのものが文化やマスメディアとのかかわりの中で、本来的に非合理の要素をもつという意味において、“神話”なのです。つまり、消費者行動の中には物的価値を追求するという経済学的要素だけでなく、人間に本来的に備わっている欲望を消費によって顕現されるとでも言えるような、社会学的要素が含まれているということです。消費社会学の研究に、必ずといっていいほど、“神話”とか“幻想”といったキーワードが登場する意味もここにあります。第三には、消費者行動というものは、表層的には経済学的・社会学的に捉えられる現象だとしても、その深層においては、そうした近代科学でも捉えきれない人間そのものがもつ非合理性によって影響されているのではないかと考えられます。この人間的な要素(人間性)を“神話”と呼びたいわけです。これほど科学が発達した現代においても、人間は人間自身について必ずしもよく知っているわけではありません。つまりレトリックとして言えば、人間自身が極めて“神話的”な存在なわけです。そうした非合理的な存在としての人間が演じる消費者行動は、やはりまだ知られざる要素をふんだんもっているという意味において、神話的といわざるをえないのです。人間というものは合理的知性とか、ヒューマニズムという人間性を超えた非合理的で不可解な側面を未だに隠しもっており、それが消費者行動において記号的現象として現れるわけです。近代社会では、人間を合理主義とヒューマニズムの立場から捉えようとするあまり、人間の隠された非合理性や複雑な社会的・文化的な側面を覆い隠してしまいました。ところが、そうした人間の側面が消えてしまったわけではなく、相変わらず根強く残っています。消費者行動において、こうした隠された人間の真実が現れる時、それは“神話”と呼ぶしかないわけです(14頁参照)。

消費の神話性に鋭いメスを入れたのは、フランスのジャン・ボードリャール氏でしょう。ボードリャール氏は、『消費社会の神話と構造』、『物の体系』、『象徴交換と死』などのいくつかの書籍を執筆しています。ジャン・ボードリャール氏は、その一連の著作を通じて、高度に発達した消費社会では商品が単なる物的・経済的な存在ではなく、記号的存在であることを初めて体系的に明らかにしたといえます。ジャン・ボードリャール氏の所説に拠れば、商品は消費者の生存的な欲求や物質生活的な欲求を充足するためだけに存在するのではありません。重要なことは、商品がそれらの経済的属性を超えて、「記号」と化し、社会的・文化的な脈絡の中であたかも「言語」のように意味作用していることです。このような主張は、商品がある場合には、“ステータス・シンボル”として機能していることを考えれば理解できるでしょう。しかしボードリャール氏は、そのような商品の社会的・文化的な機能をより一般化して、それを意味を発生し伝達する言語のような存在、つまり記号として捉えようと考えたわけです。商品や広告はもとより、消費の現象が神話的で不可解に思われるには、商品がこのように記号的存在として社会的・文化的にも機能しているからです。ボードリャール氏は、このような消費の神話的状況を記号論的な考え方を武器にして暴こうと挑戦したのです。実際、ボードリャール氏の研究は商品・広告、そしてそれらの消費を社会や文化とのかかわりにおいて捉えるユニークなものです(18頁参照)。

星野克美氏著の『消費の記号論』では、ボードリャール氏の主張を受け継ぎ、発展させて、商品が文化的記号と化し、消費が文化的行為として営まれているという考え方を提起しています。そのような考え方によって、消費社会の神話的な状況を解き明かすことを試み、格段に神話的な状況にあった日本の消費社会の現状に即して考えています。そして、ボードリャール氏においてはまだ十分ではなかった「文化記号論」の概念を応用して、消費の文化とのかかわりをもう少し深く捉え、特にそれを現代の「文化変動」の脈絡の中で考えています。この点が星野克美氏著の『消費の記号論』の特徴です(19頁参照)。消費者は合理的に消費していると考えられていますが、そもそも合理的な消費とは何なのでしょうか?人それぞれに価値観が違い、その人なりの合理性で消費しています。同じ商品に対しても感じ方が違います。それはその人の価値観を形成する背景に強く影響を受けているのです。消費とは何かを考えています。