修・令和5年3月17日、グループSKIT編著の『元号でたどる日本史』という書籍を読破した。 令 | 松陰のブログ

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修・令和5年3月17日、グループSKIT編著の『元号でたどる日本史』という書籍を読破した。

令和に改元された際、元号が話題になり、私も興味を持ち、グループSKIT編著の『元号でたどる日本史』という書籍を購入し、読破しました。とても面白い書籍でした。このグループSKIT編著の『元号でたどる日本史』という書籍の良いところは、日本史を時系列に学べるところです。古い元号順にそれぞれの元号の間に起きた出来事が記載されていますので、どういう順番で何が起き、同時期に何が起きていたのかが分かり、出来事間の繋がりが把握しやすく、日本史全体の流れが分かります。日本史の知識の整理に役立ちます。グループSKIT編著の『元号でたどる日本史』では、大化という元号から始まり、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国・安土桃山時代、江戸時代、明治以降の章に分かれ、平成の元号まで紹介しています。読んでいて、平安時代は長かったというのが実感できました。また、南北朝時代において、北朝、南朝それぞれが改元していて、並記されています。天皇が両立する特異な時代だったのが分かります(201頁参照)。

私たちにとっての元号というのは、天皇が替わると新たになるものであり、その在位中は変わらないという認識が一般的だろう。しかし、これは明治以降の比較的新しい習慣で、それ以前は、一人の天皇の在位中に複数回、元号が変わるのはよくあることであった。天皇一代につき、元号ひとつという制度を「一世一元の制」という。明治以前にも新しい天皇が即位することによる改元はあった。だが、それ以外の理由で改元されることも多かったのである。めでたい兆しと考えられる珍しい鳥や亀が見つかったり、国内から金や銅が発見されるという吉事があると、それが理由となり改元されることもあった。反対に、地震や火事、水害、戦災、疫病の流行などの凶事が起こると、厄払いのために改元されることもあった。天皇の代替わりによる改元を「代始改元」、吉事による改元を「祥瑞改元」、凶事による改元を「災異改元」という。それ以外では、十干十二支における甲子の年や辛酉の年は、混乱が起こりやすい年と考えられており、それが理由で改元されることも多かった。前者を「甲子革令」、後者を「辛酉革命」という(3頁参照)。

明治以前の元号の決め方は、まず改元の日取りが決定されると式部大輔や文章博士といった礼式や中国の古典に詳しい朝廷の役職者数名に元号勘者の命が下る。この命を受けた式部大輔や文章博士は古典にあたり、相応しいと思われる元号案を出典を付して勘申(上申)。その後、朝廷内において評議を行い、一番優れていると思われるものが新元号として選ばれる。この儀式のことを「難陳の儀」といい、最終的に選ばれた元号を勘申した者勘申者とされる(4頁参照)。日本の元号の大半が中国の古典から採られている。その中国の古典の中でも、特に「四書五経」と呼ばれる9つの古典の中から元号が選ばれることが多い。「四書」とは、『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』であり、「五経」は、『詩経』、『書経』、『礼経』、『易経』、『春秋経』のことである(7頁参照)。ちなみに、日本は江戸時代の「元和」を除き、すべて独自の元号を使用してきた歴史を持っている(6、272頁参照)。加えて、天平感宝(37頁参照)、天平勝宝(38頁参照)、天平宝字(39頁参照)、天平神護(40頁参照)、神護景雲(41頁参照)という四文字元号も存在しました。

このグループSKIT編著の『元号でたどる日本史』では、改元の理由、出典の書名ともととなった一文、および勘申者を紹介している。さらに、その元号が使われていた期間に起きた日本の歴史上の重要な出来事、ことに名称に元号がついている事件や戦争、災害などについても詳しく解説している(5頁参照)。それ以外にも、教科書では習わないトリビアがたくさん記載されていて楽しめます。興味深い記事としては、「治暦」において、前九年の役で討伐された安倍貞任の弟である安倍宗任は、私が尊敬する安倍晋三元総理大臣の遠い祖先だといわれる(97頁参照)。「永観」において、日本最古の医学書である『医心方』を著した丹波康頼が昭和時代に活躍した俳優の丹波哲郎の遠い祖先にあたる(77頁参照)。「安政」において、「安政の大獄」で、長州藩家臣の私が最も尊敬する吉田松陰先生などが処刑されている(312頁参照)。「承徳」において、伊勢平氏の平正盛が伊賀国の私領を六条院御堂に寄付し、後白河法皇から重用されるようになる(106頁参照)。平氏は私の先祖なので、先祖の躍進の契機が知れた。「康保」において、「康保」と前代の「応和」の勘申者である菅原文時は菅原道真の孫。道真の息子の菅原高視は父親の失脚に連座させられたが、文時は式部大輔まで出世した(71頁参照)。「天養」において、最古の日本語辞書である『色葉字類抄』が成立した(122頁参照)。「永万」において、二条天皇の息子でまだ生後7ヵ月の順仁親王が即位し、六条天皇になる。現在のところ歴代最年少の即位だ(133頁参照)。「暦仁」において、暦仁は2年にまたがっているとはいえ、実際には2ヵ月しか続かなかった。これは、確認ができている元号の中で最も期間が短い(164頁参照)。「宝治」において、1247年6月、北条氏と三浦氏による武力衝突「宝治合戦」が始まる。三浦側には毛利氏、関氏、宇都宮氏など反執権派が味方し、北条側には安達氏や足利氏がついた(169頁参照)。大江広元を祖とする毛利家の名前が出てきた。「正和」において、将軍を傀儡とする北条得宗家(高時)が長崎(円喜)氏の傀儡となっていた(189頁参照)。「元徳」において、南北朝が成立するのは、両統が別々の元号を立てた延元3/暦応元(1338)年からだが、このころから、南北分裂と元号の並存は始まっていた(197頁参照)。「正慶」において、正慶2/元弘3(1333)年に、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、鎌倉幕府が滅亡すると、正慶の元号も無効になった(200頁参照)。歴史から消えた元号があった。「康安」において、康安元(1361)年6月、西日本を中心に大地震が発生した。これは、現在でも危険性が高いとされる南海トラフ沖地震だったと考えられている(214頁参照)。「永和/文中」において、日本国王の称号を懐良親王が得た(219頁参照)。足利義満以前に日本国王の称号を得た人物がいた。「明徳」において、56年にわたって続いた南北の分裂は完全に統合された。この和睦は「明徳の和約」という。以後の天皇家は北朝の流れで続いていくのだが、現在は後醍醐天皇が第96代、後亀山天皇が99代と、両統迭立の期間は南朝天皇が歴代天皇に数えられる。これは明治時代に南朝を正統とする決議が議会で行われたため、明治以降、南朝を支えた楠木正成を英雄視し、足利尊氏を逆賊とする風潮につながった(229頁参照)。「応永」において、応永年間は、明治以降の一世一元制度以前では最長となる。33年9ヶ月もの長きにわたって続いた(232頁参照)。「永享」において、幕府では先々代将軍の足利義持が後継者を決めないまま亡くなったために後継者選びが難航。重臣たちの会議ではなかなか決まらないため、石清水八幡宮でのくじ引きにより足利義満の五男で義持の弟にあたる義教が選ばれた(236頁参照)。「文安」において、7代将軍の足利義勝が在位わずか8ヶ月、10歳の幼さで急死したため、文安年間は将軍不在の時代となった(240頁参照)。「康正」において、1457年、扇谷上杉家の家臣である太田道灌が江戸城を築城している(243頁参照)。「正保」において、前の元号である「寛永」のときに、天皇が3代にわたってしまい、一元三帝の前例がなかった(275頁参照)。「宝永」において、1707年、富士山が大噴火した(288頁参照)。「享保」において、享保の改革により、「四公六民制」から「五公五民制」に変わった(292頁参照)。これ以降の出来事を読むと、一揆が多発している。「元文」において、1739年、ロシアの探検船が突如、日本近海に現れた。これを「元文の黒船」という(293頁参照)。「明和」において、「明和」のもととなった一文「百姓昭明、協和万邦」からは、のちに「昭和」の元号も制定されている。明和5(1768)年には、長岡藩の領地で酷税に対して町人たちが抵抗し、2ヵ月ほどの町人自治を勝ち取った「新潟明和騒動」が起きた(299頁参照)。「文化」において、1804年、長崎にロシアの使節レザノフが通商を求めて来航。幕府がこれを追い払ったため、ロシア船は報復として樺太や択捉島を攻撃した(305頁参照)。「天保」において1837年、来航したアメリカの商船に、「異国船打払令」に基づいて砲撃した「モリソン号事件」が発生した(308頁参照)。「大正」において、明治以降、元号を勘案して上申する勘申者は公表されないことになった(324頁参照)。しかし、本書では、「昭和」において、勘申者を吉田増蔵と記載している(326頁参照)。また、大正天皇が25日深夜に崩御すると、東京日日新聞(現在の毎日新聞)は同日午前4時に発行した号外および朝刊最終版において「新しい元号が光文に決定された」と報道。だが、午前11時に宮内庁が「昭和」と発表したため、誤報となった(327頁参照)。昭和の元号が使われた64年間というのは、日本の歴代元号の中で最も長い。世界的にみても一番長く続いた元号であり、これに次ぐのが、中国・清朝の「康熙」の61年間である(329頁参照)。

本書において、161頁と282頁の勘申者欄に「藤原」と記載されているが、両頁共、「菅原」の間違いであろう。282頁の「藤原」が「菅原」の間違えであれば、このグループSKIT編著の『元号でたどる日本史』という書籍内での江戸時代における勘申者は全て菅原氏だったことになる。本書を通して読むと、地震や火災が非常に多いことに気づくだろう。さらに、院政は平安時代だけではなく、かなり長い間行われていたことも分かる。

このグループSKIT編著の『元号でたどる日本史』という書籍は、学校で習う出来事だけではなく、色々なトリビアも記載されていて、楽しく読書ができました。良書です。元号という切り口から日本史をみることにより、日本史の変遷を把握でき、非常に勉強になる書籍でした。