馬鹿という言葉がどうして生まれたか知っていますか?秦の宦官の趙高が自分の権威を示すため、家臣に鹿 | 松陰のブログ

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馬鹿という言葉がどうして生まれたか知っていますか?秦の宦官の趙高が自分の権威を示すため、家臣に鹿を馬だと言わせたことが馬鹿という言葉の語源だという俗説があります。つまり馬鹿とは権力に屈し、本当のことを言えなかった人達を指していたのです。ちなみに、これは俗説で、この語源は、サンスクリット語で、無知や迷妄を意味する「baka」「moha」の音写「莫迦(ばくか)」「募何(ぼか)」から転じたという説が有力です。

日本で馬鹿殿様として有名なのは前田利常でしょう。いつも鼻毛を伸ばしていたと言われています。ではこの前田利常は本物の馬鹿だったのでしょうか。前田利常は前田利家の息子です。前田利家は豊臣秀吉の死後、徳川家康の豊臣家を蔑ろにする行為を憂い、暗殺しようとしたことがありました。病気と言って徳川家康を前田家に呼び、殺しかけたのです。その時、徳川家康が亡くなっていれば、その後の260年にも及ぶ江戸時代という泰平の世はなかったかも知れません。そういう経緯もあり、加賀藩の前田家は徳川幕府に睨まれていました。そう、前田利常は家を守るために馬鹿を演じ、わざと鼻毛を伸ばしていたのです。徳川家康は豊臣秀頼に会い、秀頼の賢さに脅威を感じ、豊臣家を滅ぼそうと決心したと聞きます。福島正則などが改易させられる中、加賀百万石は馬鹿殿様・前田利常が守ったのです。織田信長も若い頃、うつけ者と呼ばれていました。うつけ者とは馬鹿のことです。戦国時代、周囲の大名から警戒されないように、わざと馬鹿を演じたとも言われています。また、織田信長の時代を先取りした先見性が古い既存のモノの見方しかできない連中には馬鹿にうつったとも言われています。馬鹿を演じたからこそ、今川義元が油断し、桶狭間の戦いに勝利したのかも知れません。逆に、石田三成は周囲から賢い人物だと思われていました。石田三成は豊臣秀吉に初めて会った時、三杯のお茶を出し、一杯目はぬるめでたっぷりと、二杯目は少し熱くして半分、三杯目は熱いお茶を出して工夫し、豊臣秀吉にその才能を見出され、召しかかえられたという話は有名です。しかし、石田三成はその賢さ故に敵も多く、福島正則や加藤清正から敵視されていました。関が原では福島正則や加藤清正と戦い、敗れ、結局、切腹せざるをなくなりました。石田三成は賢いが故に身を滅ぼしたのです。また、藤原頼長も賢いが故に身を滅ぼした人物です。藤原頼長は日本一の大学生と呼ばれ、知識人として周囲から敬われていました。しかし、その賢さから兄・忠通の裏切りにあい、保元の乱を引き起こすことになります。その保元の乱の際、雇った武士から夜討ちを進言されますが、藤原頼長は夜討ちなどの汚い手段を使えるかと言って拒否。反対に敵方の藤原忠通らの武士に夜討ちを受けて敗退したのです。こうなると誰が馬鹿で誰が馬鹿じゃないのか分からないでしょう。