明治維新を達成した雄藩と言えば、長州藩と薩摩藩でしょう。坂本龍馬が犬猿の仲の長州藩と薩摩藩を同盟 | 松陰のブログ

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明治維新を達成した雄藩と言えば、長州藩と薩摩藩でしょう。坂本龍馬が犬猿の仲の長州藩と薩摩藩を同盟させた薩長同盟によって明治維新が達成されたと言っても過言ではありません。長州藩と薩摩藩は類似した境遇でありながら対照的な運命を辿っています。関ヶ原の戦いでは、共に西軍に組みした毛利家と島津家。その処分は対照的でした。関ヶ原の戦い後の処理で、当初、毛利輝元は名ばかりとは言え、総大将だったことから改易を言いつけられます。それを関が原の戦いで毛利家が戦いに参加しないように尽力した吉川広家の強い嘆願により、改易は免れました。しかし、112万石から37万石へと大減封されてしまいます。一方、島津家は関ヶ原の戦いの勝敗が決すると、敵の大軍の中央を突破する島津の退き口という離れ業を見せて、逃亡に成功します。関ヶ原の戦い後の処理でも、当初、西軍に参加した島津家への重い処分も検討されていましたが、徳川方の井伊直政を仲介者にして粘り強く巧みに交渉し、現状維持の処分を勝ち取りました。幕末期において、長州藩は尊皇攘夷をスローガンにし、京でこつこつと地道に活動をして基盤を築きます。三条実美らの公家と結び、京での政治に影響を持てるようになってきました。それを、薩摩藩は会津藩と結び、八月十八日の政変を起こして、一気に京から長州藩を一掃してしまいます。薩摩藩が裏から政治的に働きかけ、長州藩は御所の警備を免ぜられます。その後、蛤御門の変では、長州藩は完全に朝敵にさせられてしまうのです。明らかに、毛利家と島津家は対照的な行動をしています。一本気で素直に突き進み、貧乏籤を引かされる毛利家と政治的に長けていて危機を無難に回避する能力に優れている島津家です。私は、吉田松陰先生を尊敬していますので、当然、長州藩贔屓です。素直過ぎて貧乏籤を引かされる人間味溢れるところが長州藩が愛される魅力なのではないでしょうか。長州藩好きの私ですが、薩摩藩にも好きな偉人がいます。それは大久保利通です。鹿児島では西郷隆盛の方が人気があるようですが、私は大久保利通の方が好きです。西郷隆盛を中央政界から追放したと大久保利通は言われていますが、元々、帰国するまでは重要な案件に関しては決定しないという話で大久保利通や木戸孝允らは岩倉使節団として欧米に出掛け、西郷隆盛に留守を任せたにも関わらず、その約束を破り、西郷隆盛は留守中に独断で重要案件を次々に決定してしまったのです。大久保利通は明治時代の礎になる制度を次々と作りました。大久保利通が嫌われ者になって尽力したからこそ明治維新が軌道に乗ったのだと思います。結局、不平士族に紀尾井町で暗殺されてしまった大久保利通ですが、大久保自身の私財はほとんど残っていなかったそうです。政治に全てを賭けていたようです。最後に、司馬遼太郎氏は「中国人の律義」という言葉を使って長州人に関して述べています。『「中国人の律儀」という言葉が戦国期にはやった。正直をむねとし、人を騙さない。はたして中国衆が全て律義者ぞろいかは別として、少なくとも毛利氏の外交方針はその律義を建前としたがために同盟国に信頼され、威を上方にまでふるった』(『世に棲む日々一』司馬遼太郎著 5頁参照)。長州藩の生き様をこの文章が表わしているように思えます。