平成23年12月3日に大河ドラマの『江』が終わった。最後、家族仲むつまじく終わっているが、その後 | 松陰のブログ

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平成23年12月3日に大河ドラマの『江』が終わった。最後、家族仲むつまじく終わっているが、その後はどうだったかというと違います。竹千代は三代将軍・家光になり、国松は忠長となって駿河の国をおさめる。しかし、二代将軍・秀忠の死後、家光は忠長を自害させているのです。ドラマでは兄弟が仲直りしたように描いているが、結局、家光は忠長を自害に追い込んだことを鑑みると、幼少期の嫉妬もあったように思える。大河ドラマの『江』は何と言うか、そう本当にドラマだった。江が織田信長に直訴したり、明智光秀に捕まったり、本当に史実を調べているのかと思える脚色が多かった。そういう意味では本当にドラマだったのだと思うね。浅井長政を「あさいながまさ」と言っていたし(笑)。<正式には「あざいながまさ」>それから初が淀君思いの妹のように描かれていましたが、これも少し疑問。考えてみて下さい。大坂冬の陣の後、豊臣方の代表として戦後処理の交渉をしたのは初ですよ(徳川方は阿茶局)。初が堀を埋めることを了承したのです。豊臣方は外堀のみを埋めることを了承したのに、徳川方が内堀まで埋めてしまったと家康の狸ぶりばかりがクローズアップされていますが、その堀を埋める徳川方の責任者である工事奉行は京極忠高だったのです。京極忠高、つまり初の息子です(実子ではなく側室の子ですけど)。何かうさんくさくない。初はものすごい野心家だったと聞いています。姉の淀君が天下人・豊臣秀吉の側室、妹の江が将軍・徳川秀忠の正室、初が自分の境遇に不満をもっていても不思議ではありません。実際、江が娘を産むと、その娘を持って帰って自分の娘にしたほどの行動家、あり得ない話ではありません(つまり将軍家の娘を養女にして徳川家との縁を強固にしたのです)。夫の京極高次は実際は駄目夫だったと聞きます。関ヶ原の戦い後、徳川家康から恩賞をもらう際、交通の要所である近江の国はこりごりだと言って、若狭の国を希望したと言われています。近江の国は京に通じる要所で、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、石田三成、後には井伊直弼などが城主になった出世の地です。その出世の地を放棄して若狭を希望したのは、京極高次に欲がなかったからです。初は京極高次を愛していたと言われていますが、何とか夫を出世させたいと強く思っていたようです。そういう状況から鑑みて、大坂城の内堀を埋めた事件、初の関与は怪しいと思います。