河合隼雄著『無意識の構造』という書籍を紹介する。 河合隼雄氏著の『無意識の構造』という書籍では | 松陰のブログ

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河合隼雄著『無意識の構造』という書籍を紹介する。

河合隼雄氏著の『無意識の構造』という書籍ではユング氏の心理学を紹介しています。ユング氏は、『夢判断』の著作で有名なフロイト氏の弟子です。ユング氏はフロイト氏の『夢判断』を読んですっかり感激しました。その後、ユング氏とフロイト氏の間に手紙のやりとりがあり、とうとう、ユング氏は夫人と共にフロイトを訪問したのです。その後、両者は精神分析学の成立のために協力しあい、1908年には共にアメリカのクラーク大学に招かれて講演をし、1909には国際精神分析学協会を設立しました。しかし、両雄並びたたず、両者の学説の差が明らかになるにつれて、お互いの心は離反し、1913年を境にして二人はきっぱりと分かれてしまい、各々が独自の道を歩むことになったのです(9頁参照)。

人間というものは思いがけない失敗をしでかしたり、してはならないと知りつつやってしまったり、愚かなことを繰り返すものです。私達は、「ままならぬ」のは他人の心と思いがちですが、自分自身の心でさえ、案外「ままならぬ」ものなのです(12頁参照)。ひとつのこだわりになっているために、連想の流れが妨害されます。人は感情的なこだわりをもつ時、意識のはたらきの円滑性が失われるのです(15頁参照)。何らかの感情によって結合されている心的内容の集まりが、無意識内に形成されている時、それを「感情的によって色づけられたコンプレックス」とユング氏は名づけました。これを後には略して、コンプレックスと呼ぶようになったのです(16頁参照)。コンプレックスの働きにより、私達の意識が無意識の作用に影響されていることが明らかになりました。人間の心を意識と無意識などと層構造に分けて考えるところが深層心理学の特徴です(25頁参照)。

私達は、自分のした行為や、考えたこと、感じたことなどについて、「私がしたこと」とか「私の考え」などと表現します。この「私の」、「私が」という主体、つまり、人間の行為や意識の主体として「自我」があります。自我は、色々な働きをしています。まず、外部の知覚ということが挙げられます。自我は視覚、聴覚などの感覚を通じて外界を認知します。次に、内界の認知ということもあります。自分の内的な欲望や感情を認知します。これらの経験は、記憶として体系化し保存しておかねばなりません。しかし、これらのことは複雑にからみあった過程です。つまり、記憶体系に基づいて知覚したものに判断を下している反面、新しい知覚に基づいて、記憶体系が改変されることもあるからです(27頁参照)。自我はまた、ある程度、統合性を有することが必要です。つまり、ひとつの纏まった人格として存在するためには、その中に大きな矛盾をもつことが許されません。自我はそこで自分の統合性を保持するために、自分自身を防御する機能も持たなければなりません(28頁参照)。自我は、その存在をそのまま保持するために、新しい経験を取り入れるのを排除しようとする傾向を持ちますが、人間の心全体としては、何か新しいことを取り入れて自らを変革しようとする傾向を持つものであり、このような相反する傾向を有しているところが、人間の心の特徴です(28頁参照)。

ユング氏は、人間の無意識の層は、その個人の生活と関連している個人的無意識と、他の人間とも共通に普遍性をもつ普遍的無意識とに分けて考えています。ユング氏は心を層構造に分けて考えています。個人的な無意識とされる層は、一度は意識されながら強度が弱くなって忘れられたか、あるいは自我がその統合性を守るために抑圧したもの、あるいは、意識に達するほどの強さを持っていないが、何らかの方法で心に残された感覚的な痕跡の内容から成り立っています。普遍的無意識とは、個人的に獲得されたものではなく、生来的なもので、人類一般に普遍的なものです。このような人類一般に共通のものにいたるまでに、ある家族に特徴的な家族的無意識とか、ある文化圏に共通に存在する文化的無意識などを考えることができます(33頁参照)。

私達の行動は思いのほかにイメージによって動かされているものです。内界を表すものとしてのイメージもありますが、一般に心理学においては、その逆に、外界の模様としてのイメージを考えることが多いです。イメージを知覚対象のない場合に生じる知覚像と定義します。イメージに対しては実験心理学的な考え方と、無意識の心理学の考え方は両極端を示しています。実際に、個々のイメージはこの両者の中間にあって、内界、外界の両方からの影響を受けて存在しているものです。普通の言語と、身体言語との中間的存在として、イメージ言語が存在します(37頁参照)。イメージとして取り扱っているものは、視覚像そのもの(個人の主観的体験)、視覚像の表現(a言語による表現、b非言語的表現)、外在化されたイメージ、に分類されます。これらのイメージはある個人の内的な状態を、何らかの意味で反映している点に特徴があります。個人の内的な状態がそれに関連しています(33頁参照)。

物理学にはエネルギーという重要な概念があります。物理的な「仕事」がなされた時、それに相応するエネルギーが消費されたと考えます。このエネルギーは位置エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギーなどと姿を変えますが、そこには「エネルギー保存の法則」が働いています。別に物理的には仕事をしていないのに、後で疲れを感じることがあります。心理的な仕事が行われている時にも、それに見合うだけの心的エネルギーが消費されているのです(46頁参照)。心的エネルギーは、心の中をたえず流動しています。自我は心の内部にある心的エネルギーを適当に消費し、それは睡眠中や休息中に補給されます。心的エネルギーが無意識から意識へと向かう時をエネルギーの進行、逆に意識より無意識へ向かう時を退行と呼んでいます(48頁参照)。心的エネルギーの退行によって、神経症的な症状が生じます。ユング氏は、退行には病的でないものもあると考えました。創造的な心的過程には退行が必要だと考えたのです。全て創造的なものには、相反するものの統合が何らかの形で認められます。両立しがたいと思われていたものが、ひとつに統合されることによって創造がなされるのです。まず心の中に定立するものがあり、それに対して反定立するものが存在します。そこで、その片方を抑圧してしまえば簡単な解決は得られますが、それは創造的とは言えません。そこで、自我はその両方に関与してゆこうと努力すると、自我はどちらにも傾けないので、一種の停止状態におちいってしまいます。ここで、自我を働かせていた心的エネルギーは退行を起こし、無意識内へと帰ってゆくことになります。自我のそれまでの働きと無意識の働きが統合され、定立と反定立を超えた、統合的なシンボルが顕在化されてくるのです。それは創造的な内容を持ち、それに伴われて心的エネルギーは進行を開始し、自我は新たなエネルギーを得て活動することになります。創造過程に伴って、新しいエネルギーが自我にもたらされますが、それの運び手となるのはシンボルです。自然のままのエネルギーの進行と退行の流れに加えて、人間が文化的な目的のために、新たな心的エネルギーを使用しようとする時、そこには適切なシンボル形成が行われなくてはなりません。人間の集団に適用して考えてみると、集団の中で創造的な能力のある個人が、何らかのシンボルを見出すと、集団の成員はそのシンボルによって新たなエネルギーを湧き立たせることになります(51頁参照)。

河合隼雄氏著の『無意識の構造』という書籍の中で重要なのは、146頁に記載されている自己と自我の関係です。自己は心の全体性であり、また同時にその中心です。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含します(146頁参照)。158頁に記載されているユング氏が自己のイメージを曼荼羅に求めたことです。自己の全体性を表すものとして、対立物の合一イメージがあります(158頁参照)。それを曼荼羅に求めたのです。この二点は熟読する価値があります。

自分を動かす自分の奥底に潜む系のイメージを掴むことができました。河合隼雄氏著の『無意識の構造』という書籍は本当に読んでいて面白い書籍でした。