NHKの『歴史秘話・ヒストリア』 | 松陰のブログ

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NHKの『歴史秘話・ヒストリア』



関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成の戦いと教科書では教えていますが、歴史好きの間では、北の政所と淀君の戦いという側面もあるとして有名です。徳川家康側の武将はほとんどが福島正則や加藤清正(加藤清正は関ヶ原の戦いでは九州に留まり、九州の西軍と戦っていました)などの武断派で、幼少期から北の政所(ねね)が育てた武将。一方、西軍は石田三成も含め、文治派が中心で、秀吉が長浜城主になってから仕えた、淀君を支持する武将が多いのです。徳川家康は武断派の武将を仲間につけるために、関ヶ原の戦い前に頻繁に北の政所のところに赴いていたといいます。北の政所も徳川家康を助けるようにと、福島正則らに告げていたと言います。

北の政所は良妻として知られていますが、豊臣家の世継ぎに関して怪しい噂もたくさんあります。北の政所が豊臣秀吉の側室の子を次々と暗殺し、家を乗っ取られないようにしていたという噂です。長浜城主時代、秀吉には側室の南殿との間に石松丸・秀勝という子がいたと言われています。しかし、亡くなっています。この死亡に北の政所が関与していると噂されています。西軍の大谷吉継には豊臣秀吉と北の政所の侍女の東殿の子という噂があります。ある茶会において、秀吉が点てた茶を回し飲みしている途中、吉継の顔の膿が茶の中に入ってしまいました。それを見ていた次に飲む武将の顔が曇りました。その時、秀吉が「その茶は出来が悪いから返せ」と言って、吉継から茶を取り上げ、膿の入った茶を秀吉が飲干したというエピソードが残っています。特別な愛情がなければ、このようなことはできないだろうと思われ、そこから大谷吉継が秀吉と東殿の子という噂になったのです。吉継という名前も秀吉を継ぐ者という意味が込められているとも噂されています。吉継は病のため、白い頭巾を顔にまとっていたと言われています。この吉継が病になったのも、北の政所が毒を盛った後遺症だという噂があります。また、淀君の最初の子であった鶴松は三歳で死亡しました。戦国時代の習わしとして、世継ぎは正室に預けるものでした。鶴松は正室の北の政所が育てていました。そして、三歳で亡くなったのです。しかし、次に生まれた豊臣秀頼は淀君の強い希望で、北の政所に預けず、淀君自身が育てました。豊臣秀頼は成人になり、大坂の夏の陣までは生きました。関ヶ原の戦いは女の嫉妬の戦いでもあったのかも知れません。恐ろしいものです。余談ですが、関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献する裏切りをした小早川秀秋は、北の政所の兄・木下家定の子です。