少庵宗淳と会津若松 | 渋谷 茶道教室「松濤庵」

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先月中頃、会津若松に初めて行くことができました。数日前に雪が降ったとのことでまわりの山々は雪に覆われていました。千利休が秀吉から切腹を命じられて一家が離散となり、千家二代目の少庵宗淳(しょうあんそうじゅん)は、利休の高弟、利休七哲(しちてつ)の一人、蒲生氏郷(がもううじさと)を頼って会津若松に逃れました。

 

 

 

氏郷はキリシタン大名であったことが知られています。秀吉から蟄居を命じられた利休を淀の船着場で細川三斎と古田織部は咎を受けることも顧みずに見送りましたが、見送りができなかった氏郷は、そのことを負い目に思い自ら少庵を引き受けたとも言われています。三年程して氏郷や徳川家康のとりなしにより少庵は京に戻り千家を復興しました。都から遠く遠く離れたみちのくの雪深い地で少庵がどのような気持ちで、どのように暮らしていたのでしょうか。

 

 

約150年前、戊辰戦争で会津藩が籠城して激戦の地となった鶴ヶ城は1965年に再築されました。白く堂々としたお城は快晴の空の下でひかり輝いていました。鶴ヶ城の城内には、麟閣(りんかく)という少庵が建てたと伝わる茶室があります。

 

 

 

麟閣の茶室は当時のままだそうで茅葺屋根に黄色い土壁、簡素でひなびた風情でした。年月を経てかなり朽ちていますが、趣きがあり利休の精神が引き継がれた茶室だと思いました。少庵は都から遠く離れても茶のことを片時も忘れずに利休の茶を広めていたのだと思います。

 

 

 

茶庭の片隅にカタクリの花がひっそりと咲いていました。少庵は利休と宗旦に挟まれて歴史の中での扱いは小さいですが、利休の侘茶を守り千家復興のためにたいへんに苦労されたことが偲ばれました。立派なお城や華やかな桜の花よりも侘びた茶室と清楚なカタクリの花の美しさが心に残りました。