アリでいいのか? キリギリスを目指すのか? それとも第三の道? | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 述べてきたように――
 この世は、強者に都合のいい設定になっている。とりわけ権力と経済が緊密に結びついている経済社会では顕著だ。

 そこで早速、引用である――

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 あなたはイソップ寓話の「アリとキリギリス」を知っているだろう。

 物語のあらすじとしては――
 夏のあいだ、アリたちはみんなで、越冬用の食料を溜め込むために一所懸命にはたらいていた。ところが一方、キリギリスは歌を歌って遊びまくっていた。やがて冬が訪れる。キリギリスは食べものを探すが見つからない。そこでアリたちに「食べものを分けてくれないか?」と頼むが「おまえは夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ?」と冷たく断られてしまう。やがて雪の中で、キリギリスは餓死する。
 ……といった少々残酷なものだ。

 寓話というからには教訓が含まれていて「毎日、こつこつと努力しなさい。遊びほうけていては将来が台なしになっちゃうよ」というもので「地道な努力」「将来への備え」「長期的な展望」「計画性」などを教えているという。
 そして、だれもが「そら、そ~だ」と納得するようである。いかにも読者(まあ、この場合は主に子どもだね)の人生に資する内容という感じだ。

 だけど、はたしてそうであろうか?

 たしかに「日々、努力する」ことは悪いことじゃない。人間が生まれながらに持っている能力なんて、たかが知れている。だから環境の中で、さまざまな刺激を受け、ひとは経験を才能に変換して能力を高めていく。このことをボクは否定しない。
 そのため「ひとは環境にない才能を獲得できない」という学説もあり、ボクもかなりの部分で賛成だ。
 典型的なところでは、アーティストや職人。先輩の模倣からはじまり、やがて自分なりのスタイルを確立し、さらにそれを洗練させて独自の域を目指す。
 とっても素敵なことである。

 けれども、これが経済活動となると、コロッと様相が変わってしまう。毎日毎日、口に糊するための定型業務の中で、ロボットのように作業をこなしていく。そこでは人間らしいクリエイティビティ(創造性)は失われてしまう。

 ……中略……

 それで「趣味を持とう」とか「仕事場とちがう友人関係を築こう」「地域の活動に参加しよう」なんていうわけだけど、齢を重ねてから、そう簡単にできるものじゃない。
 ならば「第二の人生を充実させるために……」なんてひどい話が持ち出される。なにが「ひどい」かというと「第二の人生」なんて存在しないのに――それが別に用意されているかの如く勘違いさせる言葉だからである。

 だって考えてもみてよ。人生とは生まれてから死ぬまでの期間を指す。つまり人生は一回こっきりなんだ。それがリタイア後は「なにか別のもの」が存在するかのように思わせてしまう、ある意味、経済社会が仕掛けた罠なんだよ。

 こういうことだ――。
 あんたは一般人だよ、庶民だよ、自分だけ突出したらあかん、一所懸命はたらいていればいいこともあるさ。せやさかいに……はたらく期間が終わったら自由に過ごせる素敵な老後が待ってるよん♪

 バレたかな?
 そう、強者側の都合の押しつけなんだ。翻訳しよう。

 あんたは大した存在じゃないから、たまに訪れるラッキーを支えにして、な~んも考えないで、機械の歯車のようにはたらきなさい。でもって稼ぎの大半を強者に上納しなさいね、そしたら死なない程度に生かしといてあげる。
 やがて使いものにならなくなったら、ポイッてするけど、そっから先はもう、知らないもんね。もし、老後に蓄えがあるなら「第二の人生」って甘い言葉を弄して、さらに吸いあげてあげるから……げへへへへっ。

 さきに「経済とはゴミをつくること」っていったろ? そうなんだ、経済というのは「人生ですらゴミにする」システムなのである。

 ほれ、あなたもテレビなんかで「アリの生態」を見たことがあるだろう。アリの巣には女王アリの部屋、幼虫の部屋、食糧貯蔵の部屋などがあるけど、はたらきアリの部屋(ボクの調べた限り)はない。
 唯一あるのは墓場だけ。いや、墓場というよりゴミ捨て場だ。死んだ連中は巣の外に廃棄され、それが山のようになっている。
 それどころか、はたらけなくなったら、まだ生きていても捨てられるのである。つまり機能がなくなったら、もう、お払い箱なんだ。

 ……中略……

 だけど、それが人間社会にも、機能主義の経済ということだけに限ると、あてはまってしまうんだよなあ(哀)。

 そして、はたらけなくなったとしても「大切にしてほしい」と思うんだったら、財産を持っていないといけない。もちろん、素晴らしい功績や人柄で、周囲から尊敬され大事にされることをボクは否定するものじゃない。
 また人脈や才能で尊ばれることもあるだろう。でもこれだって修飾語をそぎ落とすと利用価値……すなわち機能である。つまり広義では財産だ。さらにそれは、あくまで個別のこと(あなたが財産を持ってるか)である。
 それこそ、いつも歌っていた「キリギリスはエンタティナーとして大成功」となれば、むしろこっちのほうが安泰ともいえる。

 これを一般的な話にするなら――すなわち煎じ詰めれば……お金がないとあかんわけだ。アリのままでは、年老いて、はたらけなくなり、お金がなかったら、万事休すというのが経済社会である。
 だから蓄財を世間は勧める。みんな「いかにも」と思う。かといって、そのころには財産を生かすほどの気力・体力は残っていない。結局はまた、強者の巧妙な手口で、かすめ取られてしまうのだ。そんな設定になっているのだよ。

 ……中略……

 まずは正気に戻ることである――そのうえで、あなたが自分で選択すればいい。

 アリのままで搾取される人生を送るのか?
 一念発起して、経済社会での勝者を目指すのか?
 経済だけでない世界に価値を見出すのか?

 ほかにも、いろんな選択肢はある。それこそ無限だ。だけど、あなたがいつも目覚めて、しっかりと見据えていなければいけないのは「経済社会はそんなダンジョン」に過ぎないということ。
 もっというなら経済活動は「良心に呵責がなく、法に触れなければ、なんでもアリ(シャレじゃないよ――笑)」の世界なんだ。
 当然のことながら、この「良心」には色々な解釈がある。究極を論ずれば「経済はゴミづくり」だから、良心にまったく呵責なく経済活動なんてできない。だけど、そんなことをいっていたら生きていけないのも現実だ。スーパーマーケットやコンビニでポテトチップスも買えない。だって袋はゴミになるからね。これが高ずると、わけ分からん自然保護活動に走ったりする。

 いいじゃないか! な~んちゃって良心で(笑)。ボクはこっちだ。

 ビールにはポテチだし、缶詰は味噌煮サバ缶だ。プレゼントにはラッピングもするし、たまには着ていくことのないファンキーファッションを買ってタンスの肥やしにする。

 ……中略……

 じゃあ、OKの程度は? そんなのは、あなたが決めればいい。あなたが自分を許せる範囲までのズルはいいだろう。それ以上はきっと、あなたの良心から信号が届く。

 さきに後述するといった「返さないと困る個人への借金返済や支払い」は、この良心からの警告のことだ。脳裡で警告音がピーピー鳴ったままでは、うるさくて「思うがままの人生」はおぼつかない。
 どうしてかというと、あなたが返さないことで、そのひとは大変になる。ところが、その大変は、あなたに伝染するのだ。なぜだか、そうなってる。こちらも共通設定だ。そして、伝染病への警告が、あなたの良心に信号を送ってくるわけ。
 だから、それすらも無視して不義理をしたひとの末路はロクなことがない。お金はしっかりガメたのに悪性の病気になるとか、罪人になってしまうとか……

 でも、そうでない範囲なら……すなわち「法に触れなくて、良心の呵責がない」のであれば、なにをしてもかまわないのだ。
 そして、それが経済というゲームだ。いいも悪いもない。そんなつくりになっているダンジョンなだけのこと。あなたなりに好き勝手にプレイすればいい。ただ、あなたがしっかり認識しておく必要があるのは――

 強者が利するようにできている
 だから金持ちが正義で貧乏が悪と設定されている
 基本設定は基本的に(変な言い回しだね)変更できない
 好き勝手にしたかったら強者側に仲間入りするしかない
 でも、そこに人間的な価値はない

 という代物なのであるということ。だから「お金がない」は、こと経済社会というゲームのダンジョンにおいては「悪」として扱われる。かといって、貧乏だからといって逮捕されることもない。なぜなら人格とは関係ないからね。
 だから、もしあなたが「お金がない」で「アリになるのもイヤ」なら、立派な貧乏人として、しっかりプレイすれば問題はない。
 経済って所詮、そんなもんなんだよ。

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 そんな「アリとキリギリス」風になるかどうか分からない将来のために「いまを犠牲にする」ことほどアホな話はないことを知ろう。よしんば、そうなったとしても、あなたのほうが疲弊してしまっていたら、やっぱし徒労になる。
 もっというなら、輝いていないいまの延長線上に輝ける未来なんてある筈がない。あなたが存在するのは「いま、この時」だけ。それを納得できないカタチ(生きかた)で過ごすなんて愚の骨頂である。