立派であることと金持ちとは、なんの関係もない | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 前回、この世では、お金がないと人格すら否定される――あなたの(もちろん、ボクも)チョイスした経済社会という人生ゲームのダンジョン設定について書いた。今回は、さらに掘り下げてみよう。

 でもって、引用だ――

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 経済社会で、ひとはやっぱり金持ちにあこがれる。だって自分が虫けらよりゴジラのほうがいいからね。いや、そこまでいかなくてもミニラくらいにはなりたい。いやいや、せめて科学特捜隊の端くれくらいにはなりたいと思うのが人情だろう。
 当然だ。
 だから、ひとは「お金を持っている」というだけで評価される。尊敬されるかどうかは別として、一目置かれるのは事実だ。悪どいビジネスをしていようが、荒っぽい商売をしていようが……大儲けをしているということだけに関しては、それなりに畏敬の念を持つというのが本音だろう。
 また自分で儲けずとも、先にも述べたように資産家の出というだけでも、うらやましいと思う。その典型が、前にも、さわりを述べた金融業者。どんなに人格に問題があっても金持ちには、銀行マンや証券マンなどはヒーコラしてしまう。それが富豪なら頭取だって手もみをする。これまた現実である。

 ……中略……

 ところがまた、素晴らしい人格者であっても極貧状態であったら、やっぱり尊敬の対象とならないのが、この世の中なのである。ほれ「貧すれば鈍する」という言葉があるように「貧乏すると生活の苦しさのために精神の働きまで愚鈍になる」と考えられたり、また「衣食足りて礼節を知る」ともいわれるように「物質的な不自由がなくなって、はじめて礼儀をわきまえる(栄辱を知る――名誉とか恥辱を認識する)ことができる」と判断されるのが一般的……普通なのである。
 もちろん、ひとの欲望は際限がないので「衣食足りまくっても、恥知らず」が多いことも事実なのだが(苦笑)。

 だから、この世では「人格者でひとに尽くし、なおかつ金儲けが上手で富豪」でないといけないのだ。
 どだい無理な話である!

 だって考えてもみてよ。
 お釈迦さまは絶対にクレジットカードを持てないし、キリストさんもローンは通らない。金融機関はOKしない。保証人に弟子の舎利弗やパウロをつけても、やっぱり無理だ。なぜなら定職も安定収入もないからね。財産だって身にまとったボロ布ひとつだ。
 それどころか住所不定だから就職できないし、生活保護のセーフティネットからもごぼれ落ちてしまう。

 ところが教会はイエスを神(もしくは神の子、救世主)と崇(あが)め、お寺はお釈迦さまを開祖(もしくは仏陀、釈迦牟尼仏)と、いの一番の地位に置く。
 なぜだ?
 それは最終責任を負ってくれる保証人だからである。いくら神に祈っても、思いが通じないのは「神の計らい」だし……どれだけ仏を拝んでも、願いが叶わないのは「信心が足りない」と言い張れる。責任転嫁ができる根拠だからだ

 ちょっと思い浮かべてみてほしい。
 例えば、キリスト教の総本山とされるバチカン。ローマ法王は、むっちゃ高そうな法衣をまとい、ぐっちゃキンキラの冠をかぶり、やたら高級車に乗ってパレードして、民衆にイエスの偉大さを語る。だけどイエスさまご一行は、財産はなにも持たず、ボロ布をまとって、裸足で布教に回ったんだぜ。
 同じく各仏教の総本山でもある有名寺院の管長。紅白の小林幸子が真っ青になりそうなきらびやかな袈裟を着て「うそやろ!」と思わずいいそうになるほど多くの部下を引きつれ、これまたびっくりするほど豪華な本堂で法会を営み、大衆にお釈迦さまの教えを説く。こちらも釈尊をはじめ、舎利弗(しゃりほつ)、目連(もくれん)、迦葉(かしょう)……ご一統さまはみんな、ボロ布&無一文チームだ。

 でもって、それをひとびとは「ありがたがる」のである。ありがたがって、これまた競って大口の寄進をするのだ。すると「主はおよろこびです」とか「仏はわかってらっしゃいます」と最終責任者を引き合いに出して受け取るのだ。
 あたかも「自分は仲介者に過ぎない」というような顔をして……ね。

 ……中略……

 たしか筒井康隆氏の小説だったと思うけど――現代にタイムシフトした教祖が、寄付を求める自分の教団の集会にいって「わしゃあ、そんな教えをした憶えはない!」と叫び、キチガイ扱いされてつまみ出されるというのがあった。

 そうなんだ。聖者はつまみ出されるのである。経済活動(?)の妨げになる行動は排除されるのだ。とりわけ、それが権力(強者)と結びついていたりしたら、再起不能にされるおそれだってある。万一にも「や」印仲間だったら、極めてヤバイ。
 よしんば聖者が本物だったとしても、ニセモノされてしまうのだ。なぜなら「胡散臭い」とひとくくりにして排除したほうが、双方の利益と経済に寄与するのだ。それがいまの世の中の構造なのである。

 かといってボクは、バチカンも寺院も神社も否定するものじゃない。

 ……中略……
合法であり、それなりに顧客(信者)に応えるものであれば「問題ないんじゃない」と思う。
 だって教団も寺社も経済社会で維持継続していくには金がいる。いくら神職や僧侶といっても、電車やバスに乗るのに切符は必要だ。いやいや生身である限り、メシも喰うし、たまには酒だって呑むかも知れない。それはそれで、いいじゃないか!
 そして、そんな収入を得るため、いろんなイベント(儀式)を催行したり、お祈りをしたり、ありがたい経を詠んだり、祝詞(のりと)を奉じたり、説法をしたり……と、さまざまなサービスを提供している。

 ……中略……

 しかしながら「それが立派か?」と訊かれるとボクは「う~ん」と唸ってしまう。とはいうものの「立派でないのか?」と詰められると、これまた「う~ん」である。
 ……ていうか「関係ない」のである。

 つまり金持ちというのは状況であって、その「ひととなり」とは別問題なのだ。そして、あなたがお金持ちなら……お金持ちという状況になれたなら、それはそれで「めでたい」ことなのである。あなたの個人設定のチョイスが、世の中にフィットしていたわけだし、生まれながらでないなら、そうなったのは努力の賜物にちがいないからだ。

 かといって、あなたが貧乏人であってもまったく問題ない。いくら金持ちになりたいと思っていても、いまは貧乏人なら貧乏人として生きるしかない。ただ立派な貧乏人として、きょうを生きるかどうかは、あなた次第である。
 ところが世間は立派な貧乏人を認めない。なぜなら、ここは経済社会で「貧困は悪」とされている設定になっているからだ。ならば「あなたが、あなたを認めるしかない」のである。いかなる世間の設定があろうと、あるがままの自分自身を肯定する。
 そうできるならボクは、あなたを立派だと思う。

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 なっ! お釈迦さまだって、キリストさんだって、いま生きていたなら……わけの分からん世迷い言をほざくホームレスとされてしまうんだよ。これが、いまの経済社会というものの共通設定なのだ。
 だから本源的な価値は、あなた自身が認識する以外に手はないのである。