明日は知らない……きょう(いま)、やりたいことをやればいいんだ | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 ひとはどうして「継続」に必要以上に重きを置くのだろう? たしかに「ものごとは継続の上に成る」ことはまちがいない。これはボクも認める。
 だけど、それが「イヤイヤ」だったら、やっぱり効果が薄い……というか、下手をすると逆効果になることすらあると思うんだけど、いかがかな?

 また同時に「やめ時」ってのもあると思う。でもって、その「やめ時」も自分で決めないと、やっぱし段取り悪いと思うんだわ。なのに周囲の眼や評価を気にして、やめられないなら、これまた「イヤイヤ」に属してしまう。

 いつもの引用だ――

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 今朝、うまい具合に眼が覚めた。どうやら、まだ生きていて「人生ゲーム」はつづいているようである。

 ……中略……

 さてさて……きょうをどうしようか?

 そういえば、このところ運動不足だったので、ちょっとジョギングでもしてみるか。けど、いきなりジョギングはキツイので、ウォーキングからはじめてみよう……
 と思いついた。
 古来「思い立ったが吉日」という言葉があるよう――その気になったら、とっとと、はじめてみればいい。

 ……中略……

 ゴソゴソ用意をするあなたを見て、家族は「どうせ三日坊主」というかも知れない。
 いいじゃないか。なんといっても「きょうは、その気」なんだから……ね。そして明日になり、明日(その時は、きょう)も、その気だったら、またウォーキングだ。もし、そうでなかったら、やめてもいい。だって気分じゃないんだもの。

 ……中略……

 だって世間は、継続するヤツは偉くて、やめるヤツはペケポンと見る。これまた世の中は、そんな風な基本設定になっているだけなのだよ。

 いまから二五○○年ほどむかし、仏法の祖となるゴータマ・シッダルータ(お釈迦さま)が悟りを得るために断食行に入った。当時のインドは、苦行をしているひとは、それはそれは尊敬を集めた時代である。当然のことながら、骨皮筋衛門になってがんばってるお釈迦さまには、たくさんの参拝者(?)がやってきて供物を捧げる。けれど、そんなものには眼もくれず修行をつづけるお釈迦さま――。カッチョイイね。
 ところがある時、彼はピピッとひらめいた。そしてスジャータという村娘の献上した乳粥(ちちがゆ)を啜(すす)った。つまり、ありがたく美味しく食べたのだ。体力回復を図ったわけ。悟りを拓くのに難行苦行なんて必要ない、むしろ身体をワヤにしてしまう……と気づいたのである。
 すると、これを見ていた連中は「な~んだ、ゴータマくんも結局はダメだったな。聖者には、なりきれなかった」と手のひらを返した。それまでの尊敬から一転、バカにしだしたのである。
 すると周りに集まってくるひとびとも、やがて去っていった。

 おいおい……このままお釈迦さまが飲まず食わずをつづけていたら、おっ死んじまったかも知れないんだぜ。なのに世間の連中は、その継続を望んだのだ。なぜなら自分の尊敬するお釈迦さまは、おシャカ(笑)になるまでがんばる存在でないといけない。でないと尊敬に値しない。それこそ、自分たちの都合の勝手な押しつけだ。
 もし、お釈迦さまが断食行を継続して、そのまま死んでしまったら、こんどは「やっぱゴータマくんでも修行に耐えられなかったなあ。残念ながら、そこまでの器(うつわ)じゃなかったんだ」なんていうに決まってる。そしてやっぱり、去っていくんだ。
 無責任この上ない。だけど世間はそういうもの。これまた「世の中は、あなたに対して、なんの責任も取ってくれない」ように設定されているのだよ。

 このことは二五○○年ほどむかしと現在、なにひとつ変わっていない。

 ……中略……

 なのにあなたの都合を世間の都合に合わせる必要はない。世間に合わせても、絶対に責任は取ってくれない。結局はあなたが責任を取るハメになる。だったらハナから、あなたの気分でいこう。そう「一日駅長」ならぬ「一日ランナー(ウォーカー?)」で、ぜんぜん問題はない。大丈夫、大丈夫……全面的にOKだ。

 ……中略……

 あなたの内なるこころが「GOサインを出していないこと」は、あなたにとって「合わない」のである。反対にいうなら「合うこと」はきっと、内なるこころが「GOサイン」を出す。これまた人生というゲームの設定なのだ。
 だから三日坊主――いや一日坊主でも「やってみた」という事実。これはスゴイことである。なぜなら、ひとは、あれこれ悩む割りに……結局は「やらない」ことのほうが多いからね。
 悩むようなら、やってみる。やってみて合わないようなら、とっととやめる。それでも(些細であっても)経験は残るだろう。これが大切だ。

 きっとあなたは「でも、またやりたくなったら……」とまた悩むかも知れない。
 いいじゃないか。またやりたくなったら、その時、またはじめればいい。いま「合わない」のは機が熟していないというのかな……いまのあなたが合わないということ。あなたのほうが合うようになったら、きっとまた、その気になる。
 いつまでたっても、その気にならなかったら、あなたにとって必要ないということである。人生ゲームってのは、そういう仕掛けになっているのだ。

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 分かった?
 世間ってのは勝手な物差しをあなたに押しつけてくる。なのに絶対に責任は取ってくれない。結局、あなたが取らされるハメになる。そんな物差し、クソ喰らえ!
 だったら、ハナから「やりたいことをやればいい」んだよ。そして「やめたければ、いつでもやめていい」わけ。これなら、どこまでいっても「あなたの自己責任」だから、だれかを怨むこともないし、後悔だって自己完結できるってもんだ。