下手に「生き甲斐」とか「やりがい」と思い煩うことなかれ! | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 ボクには大正生まれの卒寿(90歳)になる母がいる。親父が亡くなってから(一時、実弟と同居していたことはあるものの)ひとり暮らしだ。年齢なりに問題(身体の不自由や持病)はあるものの……まあ、その歳にしては元気な部類だろう。
 平日の昼間は介護のデイサービスを利用し、週末はボクたち家族が訪問して一週間分の家事をこなす。当然のこと、母はボクたちの訪問を楽しみにしてくれている。ただ、軽度のアルツハイマー性認知症なので、前回(一週間前)訪問時の記憶があやふやだ。
 このあいだも土用の丑に合わせて、鰻の蒲焼きを供したところ「ひさしぶりやわあ、美味しいなあ」を連発。でも、実は二週間連続なのだ。鰻は母の好物なので「夏のスタミナをつけてもらおう」ということで重なってしまったのである。

 でもね。ボクは、笑顔で鰻を頬ばる母を見て「いいなあ」と思う。一週間前の記憶が飛んでしまっているから、母にとっては「いま」の新鮮な歓びなのだ。きっと来週も、鰻を食卓に並べても同じ反応なんだろう。
 はっきりいって、この母に「生き甲斐」だとか「やりがい」なんて存在しないんだろうことは想像に難くない。強いていうなら「生きる」ことかな。でも、そんな言葉すら、意味のない世界に母は暮らしている。

 もしかしたら、あなたは「それは後期高齢者だから……」というかも知れない。でもね、実生活にはなにがあるか分からない。急病や事故なんかで、あなたやボクのほうが高齢のボクの母より先に逝ってしまうことがないなんて保証はどこにもない。

 そこでまた、いつものように引用だ。

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 巷(ちまた)では、色々なセミナーや講座、ワークショップが花盛りだ。最近は、資格や趣味だけでなく、自己実現だとか能力開発に関するものが爆発的に増えている。やれ「コーチングだ」「メンタリングだ」「フレーミングだ」とかいって、なんかスゴイことのように喧伝しているところも少なくない。

 ……中略……

 ここで断っておくけど――ボクは、これらのセミナーや講座をけっして否定するものではない。まあ、中には「洗脳して、ぼったくり」という悪辣な連中もいるけど……たいていは、真面目に一所懸命に取り組んでいるし、そのメソッド(手法)もなかなかのものである。だって、先人のノウハウの結晶だもの……ね。

 ……中略……

 だからここでは「本書の主旨とは、残念ながら相反する」といっておこう。まあ、どちらに賛成するかは、あなたの勝手だけど……

 ボクが「ちがってる」ということ。それは「恐怖」の増大である。ひとびとの恐怖を煽って、集客を謀っている感じだ。
 この手のセミナーや講座の案内には、だいたいつぎのようなキャッチコピーが並ぶ。

 自己実現のために
 いまの自分を変える
 夢や希望を実現しよう
 生き甲斐を発見する
 目的意識を持って生きる
 人生の目標設定をする
 ……などなどだ。

 でもね。これを同じ意味で、別の表現に置き換えると――

 あなたはまだ本物じゃないよ
 いまのあなたはダメな存在
 あなたの欲望は充足されていない
 することがないなら生きてる意味がない
 なにかしないといけない
 苦しいゴールを目指すことが大切
 ……となるわけ。

 どうだい? けっこうキツイだろ。
 まるで、生き甲斐がなかったり、目的のない人生はペケポン。日々をそれなりに暮らしているだけじゃダメで、自分なりの実現すべき「なにか」をもっていないと、人間失格という印象である。
 なんか「いまの自分を脅されている」ように感じるのはボクだけだろうか?

 ……中略……

 どうして、こんなことになってしまうのか?
 それは、ひとの「存在意義」を「機能」に置いているからである。なにかができるから価値がある。なにかをするから価値がある……といった機能主義なのだ。そこから「なにかをしないといけない」という脅迫観念が生まれ「それができていないから自分は自己実現が出来ていない」と考えてしまう。
 でもって最後は「生きてる意義がない」とま……でなってしまう。難儀な話だ。

 だって「存在意義」だぜ。
 ならば「存在」そのものに意義を見出せばいいじゃない。極端な話、なにもできなくてもOKなのである。あなたはいまの「あるがまま」で大丈夫なんだ。どこにも一切、問題はない。
 それだけ! 存在に……それ以上でも以下でもないのである。


■命どぅ宝

 沖縄に「命(ぬち)どぅ宝」という言葉がある。いまでは沖縄発信の「平和のスローガン」に使われたりしている。そのまま直訳すると「いのちは宝もの」となる。
 ところが――この直訳から、いつのまにか、意味が取り違えられてしまった。さらに困ったことに沖縄のひとでも最近は本来の意味を知らないことが多い。

 すなわち「命あっての物種(ものだね)」的に思ってるわけ。これは「いのちがなくなったら、なにもできなくなるので、大切にしよう」という意味で「命あっての物種だから、深酒はやめよう」「車でぶっ飛ばすのは控えよう」なんて使ったりするのだわさ。
 類義に「死んで花実が咲くものか」「命に過ぎたる宝なし」「身ありての奉公」なんかがある。みんな、やっぱり機能主義なんだ。

 でも「命どぅ宝」の本当の意味はまったくちがう。そもそもこの言葉は、琉球時代に国王である尚寧(尚泰という説もある)が「いくさ世もしまち みろく世もやがて 嘆くなよ臣下 命ど宝」と琉歌を詠んだことに由来するとされる。
 超訳すると「もうすぐ戦乱ばかりの世の中も終わって、みんなが笑って暮らせる平和な世界が来るさ。だから家臣も民も、いまをそんなに嘆くものじゃない。いのちは宝ものだよ」とでもなるのだろうか。
 分かったかな? 生きていたら「なにかをできる」こと……その「できる生命」に対してじゃない。王さまは、ただただ「生命の存在そのものを祝福」しているんだ。

 ……中略……

 沖縄は長寿県であることは周知だけど、案外知られていないのが、沖縄県は障害者が群を抜いて多いということだ。知的障害者も身体障害者も、びっくりするほどたくさんいる。
 なぜかというと狭い島だからである。
 沖縄のひと……ひとりから友人知人親戚縁者を辿っていくと、全県民を網羅できるとまでいわれている。つまり「血が濃い」のだ。そんな中で婚姻関係がくり返されると――いい因子が掛け合わされれば安室奈美恵や具志堅用高みたいな天才が生まれるのだが、反対になってしまうと知的障害者が生まれてしまう。
 また、ちょっと田舎にいくと、猛毒を持つハブがいる。

 ……中略……

 さらに沖縄県は太平洋と東シナ海(本土のひとの感覚だと「西側の海は日本海」というイメージだけど「沖縄の西は東シナ海」なんだ!)に面している。
 ……中略……
そこにはホオジロやハンマーヘッドなどの凶暴な鮫がうようよいる。

 ……中略……

 このように沖縄は身障者を生む要素がヤマモリなのである。

 ……中略……

 ましてや琉球王が「命どぅ宝」と詠んだ時代には、もっとずっと悲惨な状況であったであろうことは想像に難くない。この言葉は、いまはもちろんのこと、それぞれの時代背景をベースに考えないといけないだろう。

 国吉翁が話をしてくれた日――。
 残念ながら、けっして晴天ではなかった。これが小説だったら「空はどこまでも晴れ渡り……」という具合に素敵な設定にできるのだろうが、あくまでも実話であるため、正直にお話ししたいと思う。
 天候は薄曇り。沖合は波が荒いので、国吉のおじいは漁に出ず、漁協近くの港で道具の手入れをしていた。通りかかったボクが声をかけたら手招きをする。船をつないである突堤に連なる作業場に降りていくと、クーラーボックスから缶ビールを取り出してボクに渡しながら、右隣の席を顎でしゃくった。
 ――うちゅううがなびら(こんにちは)……
 ボクが馴れない沖縄弁で挨拶をすると、かすかに微笑んだ。
 網の破れを繕いながら、ビールを口に運ぶ。ずいぶん古い網だ。国吉おじいは、器用に穴を狭め、網の目を整えていく。思わず手許に見とれてしまう。
「呑まんぬか?」
 おじいの声で、ボクもリングプルを引き、ビール缶を開ける。呑みさしのビールを差しあげ、乾杯のジェスチャーをしてから、おじいはビールをひと口だけ呑んで、また作業をつづける。ボクはぼんやりと海を見ていた。
 遠くから強い風の音が聞こえ、水面は少しだけ波立っている。
 ――あーあ……
 声に振り返ると、ひとりの少年……いや、青年が傍までやってきていた。おじいは作業道具を差し出す。青年は少し離れて座り、網の反対側の繕い作業を開始する。ところが、国吉おじいのそれとはちがい、あきらかにズブの素人だ。むしろ網の傷口を広げている状態。なのに国吉翁は、にこにこと笑っている。

 ほんのしばらくすると、青年は作業に飽きて、こちらにやってきた。すると国吉おじいは頷き、買いもの袋からサーターアンダギーのパックを取り出して、彼に手渡す。
 このサーターアンダギーという揚げものは、沖縄ドーナツとも呼ばれて、いまは菓子と思われているが、もともとは暑い気候でも腐らない保存食だ。だから糸満の漁師は、揚げおにぎりなどとともに携行することが多い。
 青年はパックを奪うように受け取ると、すぐに封を切り、そのまま座り込んで食べ出した。口元からぽろぽろと、だらしなくクズがこぼれる。よく見ると、青年は知的障害者のようだ。よだれを垂らしながら、アンダギーをほおばっている。
「手伝いのごほうびさね」
 と国吉翁がいう。ボクが怪訝な顔をしていると、
「おかしいかな。命どぅ宝……だからよお」
「?」
「このウチナー(沖縄)には、むかしから伝わるデージ(大事)なことさあ……」
 そう前置きをしてから、国吉のおじいは『命どぅ宝』思想の本質的な意味について語りはじめた。

 ……中略……

 国吉翁の曰く――
 沖縄には『命どぅ宝』という素晴らしい考えかたがある。ところが最近は、その本当の意味を知るひとは少ない。
 それはいつのまにか、本土の「命あっての物種」といった言葉とない交ぜになってしまい「生命があるから動けて、したいことができる」と捉えられてしまってる。つまり「なにかできる」ことに価値があり、そのベースとして「生命がある」という条件づけがなされているわけ。もっというなら「活動」が主で「生命」が従の位置関係なのだ。

 ちがうんだ。
 この『命どぅ宝』という言葉は「生命=宝もの」であり、生命そのものに無限の価値を与えている思想なのである。哲学といってもいいだろう。
 だから――作業ができる、恋愛ができる、歌を歌える、旅行ができる……といった「なにかができる」ことに主たる価値を置いていない。機能主義の徹底排除だ。もちろん「できる」に越したことはないだろう。だけど、できなくても、その価値はまったく損なわれない。ただ生命がある……それだけで宝ものなのだ。
 サーターアンダギーをほおばる知的障害の青年だって、尊い生命であることは、なにも変わらないのである。鮫に手足を食いちぎられて漁に出られなくなった漁師も、ハブに咬まれて作業ができなくなった農夫も、いやいや、寝たきりのひとであっても、その生命は宝ものなんだ。

 あなたにも生命がある。あるから本書を読んでいる。ただ、それだけでいいんだ。そこに無限の価値が存在する。
 目的意識なんて、自己実現なんて、生き甲斐なんて……難儀な社会が勝手にほざいている洗脳に過ぎない。世間の設定を鵜呑みにしてたら、あかん。
 あなたの生命は、とうのむかしから――いや、ハナから輝きを放っているのだよ。


■ 元気印のおばあ

 沖縄のおじいの話のついで(微笑)に――おばあの話もしておこう。

 ……中略……

 その日も、明日の帰阪に備えて土産物を買いに来ていた。子どもたちの好物である「まるひら工場のちんすこう」をディスカウントしてくれる顔見知りの菓子店『中村屋』で大量に買い込み……つづいて、おとな連中への土産物を物色中だった。
 入り口にエラブ(海蛇)の燻製が吊してあるお店。その店頭にセールのワゴンが出ていた。うこんの粉末――ボクが、ポリ袋を手に取って思案していると、
「にいにい(お兄さん)。それ上等よ、買っときなさい」
 声に顔をあげると、奥に笑顔満面のおばあが座っている。ボクは奥に入り、ちょっとした進物にも使いたい旨を話す。するとこんどは、
「じゃあ、ダメさね。上等なのがあるから、娘に持って来さそうね」
 と電話をかける。
 ――さっきの「上等よ」の口上は、なんだったんだ……
 苦笑しながら、ボクは店先の椅子に腰を下ろす。
 しばらくすると、布袋をぶら下げたおばあがやってきた。奥のおばあが、
「そっちのお、にいにいさね」
 振り返った布袋おばあが、箱入りのうこん粉末をボクに差し出し、
「これは上等よ」
 上等の大安売りだ(笑)。
 娘という言葉に少々期待していたボクは、思わず布袋おばあに歳を訊いた。すると「もう喜寿(七十七歳)」だという。じゃあ、奥のおばあはというと「いま九十七歳で、もうすぐ九十八歳」とのこと。なるほど、勘定は合う。奥のおばあの二十歳の時の娘である。
 ボクは自分の下心に吹き出してしまった。それを了承の意味に取ったのか、布袋おばあが商品の包装をはじめる。財布から代金を渡すと、奥のおばあは笑顔で受け取り――自分は脚が悪いので、いまは店番程度しかできない……といった話をしだす。
 包装を終えた布袋おばあが、話につき合ってるボクにお茶を淹れてくれる。そして自分もよもやま話に加わってきた。やがて、お茶のお代わりを勧める。
 これだから、この辺りでのショッピングは楽しい。きっと商品はそれなりで大したことはないものだろう(実際、そうだった)。だけど、元気印のおばあに会える。笑顔満面で『命どぅ宝』を体現している。

 こんな元気印のおばあのメッカだから、いろんな媒体の取材も多い。
 いつだったか、テレビ番組の中継が入った。もちろんテーマは「長寿と元気」だ。さまざまなおばあを紹介する。そして、並んだおばあたちに女性レポーターが、
「どうして、おばあさんたちは、そんなに元気で長生きなんですか?」
 と尋ねた。
 おばあたちはつぎつぎと、
 ――早寝、早起きをしている……
 ――食べものに注意を払っている……
 ――先祖を敬い、毎日、線香をあげている……
 ところが、最高齢らしきおばあが考え込んでいる。やがてマイクが向けられると、
「そんなこと、いままで考えたこともなかったさあ」
 ブラボー!
 気まずそうなレポーターをよそにボクは思わず拍手をしてしまった。
 そうなんだ。この『命どぅ宝』だって、偉そうにスローガンにするものじゃない。あくまで日常で実現されているから尊いんだ。言い換えるなら「普通」なのである。
 ここで、このおばあに「あなたの生き甲斐は?」とか「人生目標は?」「自己実現って?」と訊いてみたとイメージしてほしい。
 きっと「そんなこと、いままで考えたこともなかったさあ」と答えが返ってくると思わないか?

 分かったかい。
 高らかに「自己実現」とか「生き甲斐」「人生目標」「目的意識」なんて謳ってしまうから大変になる。しんどくなる。下手なプレッシャーが生まれる。そんなものは、あなたを呪縛するものでしかない。だったら、とっとと手を放してしまえ!

 ……中略……

 なのに……まだ訪れてもない未来に恐れおののいてどうするの? そんなものは潔く放棄してしまおう。未来にいらん希望を持つから苦しくなる。こういうと、なんか捨て鉢な印象かも知れない。
 ちがうんだ。もういちど、元気印のおばあを見てごらんよ。ぜんぜん苦しんでないだろ。むしろ楽しんでいる。なぜだろ?

 それは(積極的に建設的に)未来を放棄しているからだ。

 ほれ「明日は明日の風が吹く」だとか「ケセラセラ(なるようになる)」という言葉があるだろう。ところがひとは、これを「無責任」だとか「投げやり」という意味に解釈して、むしろ「きょうのひと針、あすの十針(=きょう、ひと針を縫うことをしないでいると、ほつれが広がって、あすは十針縫うハメになる)」や「きょうできることを明日に延ばすな」といったほうに価値を与えてしまう。
 つまり「いま、未来を抱え込んでしまう」わけである。
 冷静になって考えてみれば、そんなことは、どだい無理な話だ。だって明日は大地震が起こって、あなたも世界も消えてなくなるかも知れない。そんな知らない未来を考えて戦々恐々としたところで、なにもはじまらない。むしろ、いまが哀しくなってしまう。もっというなら「明日できることは明日にすることにして、きょうしなくてもいい」んだよ。

 こんな風にいうと「明日に希望を持つのはいいことだろ!」という反論が聞こえてきそうだね。そのとおりだ。ボクは明日に希望を持つことを否定してはいない。だけど、そんな分からない明日より、きょうの希望を実現したほうがいいと思わないかい? きょうできることをきょうしてしまう。そいでもって満足して眠りにつく。よしんば明日、目覚めなくてもいいじゃないか!
 きっとおばあは、そんな毎日を送っているのだろう。だから「考えたこともない」し「考えようとも思わない」わけさ。
 もし明日が訪れたなら、その日(つまり、きょう)を存分に楽しむ。その楽しみかたは、眼が覚めてから考えればいい。

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 そうなんだ。
 この世の中では「将来のため」だとか「未来に備える」「生き甲斐」「やりがい」なんて言葉で「いま」を縛り、きょうを犠牲にしているのに思いのほか、気づかない。
 それよか「いま、この時」を大切にて、健やかにきょうを送ることのほうが、ずっと素敵なことだと思わないかい?