仏法談義14――怨嗟の鎖を断ち切ろう | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 実をいうと日本の仏教は、お釈迦さまの教えではない。びっくりするかも知れないが本当の話だ。というのも、日本に伝わったのは大乗仏教だから……

 この大乗仏教――その根拠となる経典(華厳経、無量寿経、法華経などなど)で、お釈迦さまの直接の教えを伝えているものはない。みんな後世の創作物だ。

 もちろん、その源泉にはお釈迦さまが存在するのは事実だ。だけど大乗経典には、ひととして生まれ、ひととして悩み苦しみ、ひととして修行し、ひととして悟り、ひととして教え、ひととして旅だった……お釈迦さまのことは一切書かれていない。

 じゃあ、なにが書かれているのかというと、それはスーパーファンタジーである。
 お釈迦さまを本仏とする釈迦牟尼仏をはじめとして、無量寿仏(阿弥陀仏)、阿?仏(あしゅくぶつ)、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、薬師仏、燃燈仏……いろいろな仏さまのオンパレードで、一大ページェントがくり広げられている。
 いってしまえば、仏法戯曲・仏法小説のスタイルを採ったノウハウ本だ。

 なんで、こんな風になったのかというと――お釈迦さまの入滅後、仏教は、どちらかというと学問化してしまった。すると「そんなんじゃ意味ないやんか」と実行実践を求める声が高まり、さらに「みんながブッダ(覚者)になれんとあかん」と……宗教改革の嵐が吹いたわけ。

 ところが、お釈迦さまは「後有(生まれ変わる)を得ず」といって、しっかりちゃっかり涅槃にいっちゃってる。これは困った。
 そこで「実はほかにも仏さまがおったんやで」と、いろんな仏さまの物語を創造したわけさ。そして救済のため、この世で大活躍してくれる。ちょうどウルトラマンが光の国から助けに来てくれるみたいに……ね。
 中でも阿弥陀仏なんかは「みんながみんな成仏せんと、わしも成仏せん」なんて宣言したってストーリーになってるから、それはもうファンがいっぱいになったわけ。だから「南無阿弥陀仏」とは「あたしゃあね。阿弥陀仏さん、あんたに全権委任……すべて、まかせまっせ」という宣誓だ。

 このような流れで生まれ出たのが「仏の知慧・仏の慈悲」という考えかたである。すなわち「悟りと救済は不可分」という発想だ。これこそ仏法が、ほかの宗教と絶対的にちがう部分である。つまり、仏の救済は「みんなそろっての仏への道」ということだ。

 例えばキリスト教、イスラム教などの一神教。ここでも神の救済が説かれている。だけど救済されたひとは、やっぱりひとなのだ。神とのあいだに絶対的な断絶がある。いつまでたっても親分と手下の関係は維持されるって寸法。
 だから親分がちがえば(本来はヤーフェでいっしょなのにね)、平気で相手をやっつけられるわけだ。復讐に燃えてウサマ・ヴィンラディンだって、フセインだって殺せる。そこに裁判という正規のプロセスはない。だって神の裁きだもん。
 なぜなら「うちの親分(絶対神)が正しくて、おまえんとこの親分はパチモン」と、お互いに思っているからね。
 するとまた怨嗟の鎖がつながってしまう。

 ところが仏の救済は、解脱と直結している。そうだ! 救われたひとは、そのまま仏になるのだ。いっしょになってしまうのだから、そこに断絶は一切ない。ちょうどマルチ商法やネズミ講みたいに仏が増えていく(笑)。
 親分子分がなくなるので、あくまで水平だ。だから怨嗟も発生しない。鎖が断ち切られる……というか、ただただ消滅してしまう。

 まあ、ここまで大げさでなくても――あなたにもし、憎む・恨むだれかがいるとしたら、そんな思いは、とっとと捨ててしまおう。
 なぜなら、その執著(しゅうじゃく)こそが、あなたの覚醒を妨げてしまうから……