数年前のこと。もうすぐクリスマスという師走の街――街角ではツリーが煌めき、ジンゴベーの音楽が流れる。親子連れや恋人たちが、プレゼントを買い求めるため店々を巡り、街はひとときの活況を呈している。
それはそれで素敵なことだが……はたして、そのもととなったナザレのイエスに思いを馳せているひとがどのくらいいるのだろう? その言葉をひもどいてみることを どのくらいのひとがしているのだろう?
そんな中、ボクは一冊の本を求めた。
ダンマパダ――和訳では「法句経(ほっくきょう)」と呼ばれる四二三の偈(げ=詩のこと)からなる原始仏典で、釈尊の言葉がそのまま残されているといわれる。
これまでの仏法談義では、どちらかというと大乗経……とりわけボクがファンである法華経と華厳経から、いろいろとお話ししてきた。
言い換えるなら小乗(これは蔑称なので、いまは部派とか上座部という)仏法とは、わりかし疎遠だったといえる。ところが不思議な縁で、ちょいと上座部仏教も勉強してみようという気になったのである。
その根本教典が「法句経」だ。
そして冒頭で、いきなり「!」である。
一
ものごとは心にもとづき、心を主とし、
心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、
苦しみはその人につき従う。
──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
二
ものごとは心にもとづき、心を主とし、
心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、
福楽はその人につき従う。
──影がそのからだから離れないように。
でもって、こうつづく。
三
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。
かれは、われらから強奪した。」という思いをいだく人には、
怨(うら)みはついに息(や)むことがない。
四
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。
かれは、われらから強奪した。」という思いをいだかない人には、
ついに怨みが息(や)む。
五
実にこの世においては、
怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに怨みの息(や)むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。
いきなり「こころの実相」である。ボクが「仏法は宗教じゃなくて、生きかた哲学」といっているのを……まんま証明してくれている(嬉)。
そして思う……ゴータマ・シッダルータ、恐るべし!
ナザレのイエスが「赦(ゆる)し」を説く500年も前に「そんなん、そもそもこころの影やから、ハナから怒ったらあかん」といいきっているのだ。つまり「怒ってから赦すんやのうて、その思いすら、どーでもいいこと」なのである。
分かるかな。
ボク流の解釈をするなら――腹が立つから怨みの念が生まれる。そんな念を後生大事に持ちつづけること自体が悪い影を引きずるようなもの。所詮、影は影。どうでもいいことである。どうでもいいことに囚われると人生すら無為に過ごしてしまう。
だったら、怒っている自分を「アホなやっちゃ!」と、せせら笑ってしまえ。そうすればもう、怒りは消え失せているだろう。だって、どーでもいいことやもん。
かといって、人間は感情の動物である。喜怒哀楽がある。その瞬間「ムッとする」ことがないようになんて、なかなかできるものじゃない。だから、せめてボクたちは怒りを瞬間冷凍しよう。そして解凍前に生ゴミとして、とっとと捨ててしまおう。
どうか、ひとびとが怒りという呪縛から解放されますように……