危険な聖地巡り | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 ここのところ「パワースポット」なんて呼ばれる場所にいくのがブームになっているようだ。たいていは神社仏閣の一隅だったり、その近所だったりすることが多い。でもって、そこにある神木や清泉などの写真を撮って携帯(いまではスマホ?)なんかの待ち受け画面にするとラッキーがやってくるなんて……いわれたりしている。

 さらに最近は、けっこう有名なコンサルの先生なんかが主催者となって「イヤシロチ巡り」などが開催されたりして、これまたかなりの参加者を集めている。この「イヤシロチ」というのは聖地のことで、反対にペケポンの場所は「ケガレチ」という。

 まあ、これが観光だとか物見遊山といったライトな感覚でいくのなら、さほど問題はないのだろうけど――しっかりきっちしヘビーな思いで、いくとなるとエライことになる可能性がある。


 またボクの著書『ごめんね、でも愛してるよ! ―「鬱(うつ)」から大切なひとを救うため、あなたができる魔法(こと)―』から、その部分を引用しよう。


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 ……前略……ここでいう「霊」とは先に述べたとおり「助けてくれ」の「思い」である。つまり「助けてくれ組」の連中が、自分ではどうしようもないので、代わりに「苦しんでくれ」「死んでくれ」といっているわけ。それに感応してしまった大切なひとが苦しみ、あなたが苦悩の中にいる。
 すると聖地というのは、ヤツらにとって「助けてもらえるかも知れない」光り輝く場所と映る。当然、ヤツらは聖地を目指す。ところが聖地は、あまりにも明るく輝いているので、ヤツらは入れない。周辺に『わじわじ』と留まるしかない。よく心霊スポットなどとして「神社仏閣近くで幽霊が……」といわれるだろう。
 そんなところに鬱で苦しむ大切なひとがいったなら……簡単に想像できるだろう? ヤツら「助けてくれ組」の餌食となってしまうのは自明だ。ヘリコプターなどで聖地に直接降下できるなら話は別だが――「助けてくれ組」の潜む周辺を通ることを避けられない状況で、あなたの大切なひとをわざわざ危険に曝(さら)す必要はない。


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 この著書は「あなたが大切なひとを鬱から救済する」というテーマで書いているため、そのままでは分かりにくいかも知れないので、ちょっと補足説明をする。

 以前『危険な言霊――ツイてる』(テーマ「魔法の言霊」のブログ)で「憑くもの」について解説したよね。それは――あなた専門の精霊である守護神や守護霊、あなたの素敵な振る舞いに感動して応援だとなってくれる精霊……そして、最終的に地獄に引きずり込む「悪霊」である。

 でもって、最後の悪霊をボクは著書の流れで『わじわじ』と呼んでいる。ところが、この悪霊というのは、ある意味「可哀想な連中」といってもいいだろう。いわば――不成仏霊、自縛霊、浮游霊……等々、さらに生き霊なんかになるわけ。
 なんとか助かりたいんだけど、自分ではできないので取り憑く。「自分で死ねないので、あんた死んでくれ」だし「あたしの不幸を肩代わりしてくれ」という手前勝手ではあるが、その本音は「助けてくれ」である。だからボクは「助けてくれ組」と命名した。


 こんな悪霊連中は「もしかしたら、助かるかも知れない」と聖地を目指す。ところが聖地そのものは、光り輝く聖なる場所なので入ることができない。悪しきもの立入禁止だ。すると、その周辺に『わじわじ』と、たむろするしかない。
 そこへ「大儲けさせてや」とか「玉の輿に乗りたい」「ライバルを蹴落としたい」といったエゴ丸出し×欲望ギンギンでいったなら、結果は明白だ。見事に悪霊と周波数が合ってしまうので、ヤツらが「助けて」と取り憑いてしまう。お~、怖い。
 だから安易な聖地巡りにボクは警鐘を鳴らすわけ。


 それにね――神社仏閣は本来「ほしい、ほしい」「くれ、くれ」と要求にいく場所じゃない。神さまとこには「わたしは、こんな素敵なひとになるので……道を外さないよう、お導きください」と宣誓(宣言)と指導祈願(依頼)にいく、仏さまん家には「まがりなりにも、ちゃんとやれてます……おおきにありがとう」と感謝にいくというのが筋。
 なのに自分を省みずもしないで「くれ、くれ」といわれても困ってしまう。あなたが神さま・仏さまの立場に立てば分かるだろう。だって本末転倒だもん。
 ほんで、そんな思いを持ったまま、聖地の門から出たなら……悪霊連中から見たら「おおっ、仲間が来たぞい」以外のなにものでもない。


 さらにいうなら――聖なる場所と汚れた場所という選り分けも、やっぱ二元論の罪といっていいだろう。だって地球上のどっかだからね。
 この地球はボクたちにとって母なる惑星である。これに異論はない筈だ。すると「お母さんの右手は聖なるところで、左脚は汚れている」といってるのといっしょ。そんなアホな話がないのはサルでも分かる。


 じゃあ、どうする?
 ボクは上記の引用部分を以下のように結んでいる。


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 大切なのは――聖地を求めることじゃなくて「あなたや大切なひとがいる場所を聖地としてしまう」ことなのだ。


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 もちろんボクは聖地(神社仏閣など)を参拝することを否定しているのじゃない。ボクだって、あの清浄な雰囲気は大好きだ。

 でも「聖なる場所には聖なるものしか立入禁止」という厳然たるルールがあることを忘れないでほしい。だから、あなたが清浄なるところに赴くなら、あなた自身が(禊ぎなり祓いなどをして)身もこころも清浄なる存在になってでないとマズイということだ。