松戸上本郷道院のブログへようこそ。
今回は
の3つ目『守主攻従』について書きます。
読んで字の如し
守主攻従は、その名の通り、少林寺拳法は「守りが主体であって、攻めが主体ではない(従)」と言うことを表しています。
なぜそのような特徴(スタンス)があるのか。
教科書的な理由として「精神的な理由」と「技術的な理由」があります。
精神的な理由
少林寺拳法の求める人間像は
です。
少林寺拳法を学んで、その技術で自分から人を傷つけるようなことはしてはならないのです。(道院で私が教えた技術で、利己的なケンカをしたら破門にします^ ^)
自分から手を出さないのであれば、拳法を使う機会は原則としてまずは相手の攻撃があるはずです。
先に手を出さない。
限界まで対話での解決をする。
ロシアのウクライナ侵攻はこの観点からも許されるものではありません。
拳法を学ぶものは、その技術を「いつ、どのように使うのか」考えながら修行しないといけません。
一生使わないのが一番良いと私は思います。
技術的な理由
先に手を出しちゃいけないなんて制約、窮屈じゃないか!と思う人もいるかと思います。
実はそうでもないんだ、というのが少林寺拳法のスタンスです。技術的な理由があるということです。
技術的な理由とは何か?
よくマンガで、対峙してる二人が「先に動いた方が、、、負ける!」みたいなこと言って「目には見えないが、今二人の間では無数の攻防が繰り広げられてるのだ」とお前誰だよ的なキャラが物知り顔で解説をする、それです。
構えた時、基本として脇はしめてますよね。例えば突きを打った時、一つの見方としては相手の怖い怖い拳が自分に向かって飛んでくる。これは自分が不利になる観点です。
別の見方としては、せっかく構えて守ってる脇(アバラあたり)を、そのガードを崩して近づいてきているという観点があります。こう考えたらどうでしょう?(相手の攻撃さえかわせれば)相手は自分に弱点を晒しながら近づいてきてる。これは自分が有利になる観点です。
少林寺拳法のスタンスとしては、まず守る、出来ればそこで相手の体勢を崩す。そして、スキの生じたところに反撃をする。
それを理想として体系が組まれています。これが技術的な理由です。
精神的な理由は技術にも影響がある
試合に出ない私たちにとって、拳法を使う際は極めて「非日常」です。
拳法を『使う』、ではなく『使ってしまう』『使わざるを得ない』そういう状況のはずです。
拳法を使うことで、自分の社会的地位が脅かされるかもしれない、家族は?仕事は?色々考えるはずです。
先に手を出さない、あくまで相手の暴力に対して抑止力として自分が拳法を使うのだ、ということを自分もそう思うしまわりから見てもそう思ってもらえる。その前提が整っているかどうかは、よほど頭の狂ってる人でもない限り、自分の動き・パフォーマンスにも影響を与えます。
そういう意味でも精神的理由を重視することは大切なのです。
最も情けないのは、むやみに先に手を出して、途中で我に帰って「家族や仕事を失うかもしれない」と思い立って萎縮し負けることです。どう考えてもバカのすることです。
不敗の体制の確立
『不敗の体制の確立』は、少林寺拳法においてよく出てくるワードです。門下生は必ず覚えておいてください。
「勝たなくても良い。負けなければ」と開祖は言っていました。相手を打ちのめす必要はなく、自分と大切な人(の安全と尊厳)が守れてれば良いのです。
後の先・対の先・先の先、という概念がありますが「まず負けない」という観点から、後の先の重要性が説かれています。
技法的には「やや遠間の一字構の開き構え、これが少林寺拳法の原則だ!」と言われる先生もいます。徹底して備えるのです。
「備え」こそ少林寺拳法の核心なのではないかとさえ思っています。
脱線しましたが、先に手を出そうが後に手を出そうが、技術的な理由以前に、習熟度の高い者が勝ちます。有利不利はあくまで力が拮抗してる者同士での話です。
不敗の体制を確立するために、今自分が何をするのか、そう考えて日々の修練を行い、習熟度を高めると共に「私は公序良俗に照らして何も責められることをしていない」という自負が必要になります。
他人を否定せずとも自分が認められ、他人から責めらるスキのない人間。そういうものを目指していきましょう。そのための守主攻従です。

にほんブログ村