初段の初日は、鎮魂行の主座! | 身体からの悟りを目指して ~ 少林寺拳法

身体からの悟りを目指して ~ 少林寺拳法

我孫子道院 道院長のブログ

今日の稽古の鎮魂行は、先週の昇格考試で准拳士初段になった、一般部の拳士を主座に指名した


我孫子道院では、少年部の稽古のときは、緑帯以上の少年拳士が毎回交代で鎮魂行の主座をやることにしているが、一般部の稽古は道院長が主座をするのが基本(土曜日の稽古だけは、少年部と一般部の時間が重なっているので、毎回ワタシが主座を務めている)


しかしワタシは、『鎮魂行の主座ができない有段者なんて、論外である』と、某先達から教えを受けているので、一般部で初段に昇格した拳士が最初に参座した日には、原則として鎮魂行の主座をやるよう指導している


指導者の皆さんは、ひょっとすると「鎮魂行は毎回やっているのだから、主座も出来て当然!」と、思うかもしれないが、打棒の持ち方、叩き方、姿勢の正し方に歩き方、教典の開き方、閉じ方、各種作法と、経験しないとわからないことがけっこうある


もちろん初体験の拳士には、事前に一通りレクチャーするのだが……

開祖のおっしゃるとおり、何事も「わかることと、出来ることは違う」のである!?

この“儀式”を通して「初段の『初』は、『初心に戻って精進せよ』」という意味が込められていることを、実感してもらえれば、というのもワタシの狙いのひとつ


それともう一点、気づいてもらいたいのは、主座だけが教典を目で読むというところ

通常、主座は道院長や幹部拳士をはじめ、ベテラン拳士が務めることになっている

それらの拳士は、当然教典を諳んじているのだから、本来巻物を開いて見る必要はないはずだが、すっかり暗記している文言でも、改めて文字として読んでいくと、「あっ、これはこういう意味だったのか」と、いろいろ発見することがある


少林寺拳法は、その全体が巨大な気づきの装置であり、その修行は「気づきの連続」でもあるわけだが、主座も気づきの大チャンス


なぜ主座だけが教典を読みながら鎮魂行をおこなうのか? を、門下生各位も考えてほしい


※金剛禅では「経典」ではなく、「教典」と呼びます

  何故だか分かりますよね?



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主座、初体験(?)中のS初段

ちょっぴり違和感のあるところが見受けられるが、こまかいことは気にしない!


本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『104』