こんにちは 我孫子道院 道院長の「上虚下実」(じょうきょかじつ)です。
このたび柄にもなくブログをはじめることにいたしました。
しかもタイトルは「身体からの悟りを目指す~少林寺拳法」
我ながら大それたテーマです。
当然のことながら、ワタシ自身は悟りの境地には程遠い存在ですが、
あくまで「目指す」というだけです。
某家電量販店の「安さ日本一への挑戦」というコピーと同じで、
現時点での段階は……ということで、微志をご諒察ください。
ところで、悟りといってもいろいろあるようですが、
ワタシは「悟り」=身心自在の境地と解釈しています。
そして武道あるいは禅の修行は、平常心を養うことが要諦とされています。
何が起きても現実を受け入れ、普段と変わらず自由自在に動ける心、これが平常心であり、悟りの境地だと私は学びました。
この平常心の反対は、緊張心になるわけですが、
緊張すると身体が固まって、緊張身になり、
普段ならできることをミスしてしまったり、反応が鈍るということがよくあります。
一方、切羽詰ってしまったようなときに、お風呂に入ったり、トイレに入って身体がリラックスした瞬間、ピンチを脱する妙案が浮かぶことも珍しくありません。
つまり、心が緊張して緊張心が生じると、身体もこわばり緊張身となり、
逆に身体がリラックスすれば、平常身を取り戻し、精神面も平常心を得られるという関係性があるということです。
しかるがゆえに、悟り=平常心を養うには、
精神修養によって胆力を養成する方法と、身体からアプローチして、平常身を得、そこから平常心へ至る二つの道があるわけです。
だからこそ、金剛禅総本山少林寺に伝わる禅門の行=少林寺拳法では、「拳禅一如」の修行法をその特徴の第一に掲げて、肉体と精神の両面を同時に修養することを強調しているのでしょう。
しかしながら、拳(身体)の修行と、禅(精神)の修行の効果は等しくなく、拳の修行は禅の修行の百千倍の効果があると少林寺拳法教範にも書かれています。
これはなぜか?
ワタシが思うに、心は目にも見えないし、触ることもできないが、
身体は誰にでも実体があります。
実体があれば、状態がつかみやすいし、手ごたえと手がかりがあります。
というわけで、少林寺拳法の修錬=易筋行を通じて、平常身→平常心→悟りへたどり着けるよう試行錯誤し、
その過程で気づいたことをこのブログで報告させていただく予定です。
もっとも、我々が学んでいる金剛禅では、
他の禅宗各派(南頓禅)と違い、悟れば終わりというのではなく、
悟りのあとの悟りを重視する、漸々修学の北禅の流れを汲んでいるので、
何度も何度も悟りの瞬間が訪れるかもしれません。
それはそれで楽しみであるような気もしますが……
どんなに遠く長い覚道であっても、途中で途切れていないことを祈っております。
「今日の悟りと明日の悟りは違う」(開祖)