月末は途方に暮れる | タイムマシンズ STARTのブログ

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ショップユー店長のSTARTこと垣添です。
ちょっとした気づきや個人的なことなども書いています。

 

今月もそろそろ終わり。

月末は、支払いとかで途方に暮れる方、けっこう多いのではないかと推察します。

私もその一人ですが、ひょっとしてあなたも、そんな状況だったら、以下をご一読ください。

100年前の本なので、ちょっと読みにくいかも知れませんが、参考になれば幸いです。

 

 

 ◇下を見れば限がない

 秋山定輔氏が二六新聞を経営している時分のこと、事業が面白くゆかないで、高利貸しのやっかいになったことが幾度か知れない。差し押さえを喰らうこと前後数回、いよいよ困って困り抜いて本所方面の某高利貸しに、取り立て延期の哀願に出かけようと、両国橋を渡っていた。つくづく考えてみると、自分の今までにして来た借金はヤワな金額ではない。そうして自分の年を数えてみると、もう余命いかほども残っていない。これから一生懸命に稼いで、負債整理に従事したところで、その借金が返してしまえるかどうか判らない。たとえ借金返しが完全にできたにしたところで、これから幾十年、借金整理のために生きていることは実に愚かな話である。一層のこと、この橋の上から投身して死んでしまったほうがマシかも知れぬ。こう思って、ツカツカと橋縁のほうに進んで行くと、ちょうどめの時、そこに一人の乞食がいて、『通りすがりの旦那様、どうかこの乞食に一文やって下さい』とさも哀れな声で呼びかけた。氏はバネ仕掛けのように飛び上がって驚いた。そうしてまるで夢から醒めたように自分にかえった、何がしかのお金をその乞食に恵んでやって、再び元の道に返りながら、自分の今しようとしていたことの愚かさを痛切に感じた。世の中は下を見れば限りもないものだ。こうしてまでもやはり生きて行かねばならぬものか、生きて行きたいものか。いかに困ったとはいえ、自分はまだ乞食よりはマシではないか。今少し生きてみよう。生きて自分の出来るだけのことをやってみよう。そう思って氏は、頑強に生きることを考えた。
 上見れば 及ばぬことの多かりき 笠被て暮らせ 己が心に
 絶対絶命という場合にも、自分の周囲ばかり見ないで、眼を他に転ずれば、何かしら一つの活路が見い出されるものである。いかなる場合にも、悲観してはいけない。人生を一つの大なる芝居と考えて、苦しい時、困った時、悲しい時、自分はその一つの役目を演じているのだと考えてみると、そこに根強い楽観的な考えが浮かんでくるにきまってさいる。自分も困っているが、自分より困っているものも、まだたくさんいる。それに比べれば自分などは、まだまだ結構なものだとき思ってくると、ゆぜんとして呑気な考えが沸いてくる。呑気な考えが沸いてくれば、もうしめたものが。そこに落ち着きが出来てくる。落ち着きができてくれば、必ず何とかして苦境を切り抜ける方法も着いてくるというものだ。困難に処する秘訣は楽観的になるほかにはない。

 ◇一切の見栄や体裁を捨てよ

 二宮尊徳が言ったことがある。
 人間は一歩先を見越す覚悟がなければならぬ。今まで年千円の生活をして来た者が、一朝財政不如意となって、九百円の生活しか出来なくなった時には、思い切って八百円の生活に下がるということが必要である。そうでないと千円で足らないものが、九百円に下がるように、また九百円から八百円、八百円から七百円と段々押し下がって、おしまいには、百円の生活すら容易でなくなる。これが尊徳翁の財政整理に対する考えである。今の言葉でいえば徹底的な改革なのである。事業に失敗したもの、あるいは業を失ったもの、あるいは不慮のことで財産を減らし、もしくば失ったものが困ったというのは、多くは絶対絶命に困ったのではなくして、よく考えてみると、今まで慣れきたった生活に対する執着、つまり外見や体裁に囚われておるからである。思い切ってそうした外見や体裁を捨てししまって、できうる限りの切り詰めた質素な生活に立ち戻ってみると、存外ラクになれるばかりでなく、いわゆる捲土重来の勇気も出てくれば、実力の貯えも残っていることに気がつくであろう。
 維新政変後、思い切って外見ばかりでなく、心から商人になり百姓になった武士には、今日相当な成功をして、世に時めく生活をし、社会からも尊重され地位を保っている者が多いが、いつまでも武士だ、特殊の家柄だということに執着して、素町人には成れないとか、土百姓にはなれないと言って澄ましていた者には、今日の生活にも困って、娘を女郎に売ったり、芸者にしたり、自分自身は、納豆売りをして渡世しているようなものが多い。見栄や体裁はいかなる場合にも、いかなる階級の人にも、災いにこそなれ決して、その人を幸いにするものではないが、特に困った時には、これほど害になるものはない。金は天下のまわり持ち、今窮迫しているからといって、明日またいかなる運によって、立派な生活ができるようにならぬとも限らぬ。して見てれば、何も一時、これまで慣らされた生活を破壊して身を落としたからといって、何もそれだけ世界が狭くなったわけでもなければ、他人に対して恥ずかしいわけでもない。起きるのも、伏すのも長い人生を渡る一つの方法と考えれば、それで好いのである。

 ◇無理をしてはいけない

 雄飛雌伏ということがある。困った時にはまず大いに屈するのが好い。まだ多少の余裕があるからといって、無理押しをしてはいけない。悪運というようなものも一つの生きた力であって、その力には自ら限りがあり押し寄せて来るに寿命がある。悪運に向かっても、ちょうど押し合いをしているように考えるが好い。押し寄せてくる間は、踏みとどまることを考えるよりも、どこまで退却したらよいかも考えるほうが利口である。無抵抗にドンドン悪運の押すままに押されて、その力の尽きるのを待つのである。その力が尽きたら、それからヂリヂリ押し返し始めるのが好い。決して悪運に抵抗して、なけなしの力を用いてはいけない。もし悪運の力があまり強くて、押し倒されそうであったら、グッと張り堪えるだけの忍耐力はなければならぬ。力の限り根限り張り堪えてみて、それで力及ばずして押し倒されるならば、それはもう人くして天命を待つというのは、このことを言ったものである。

 ◇この心一つを唯一最後の資本に

 事業に失敗したからといって、業を失ったからといって、保護者が無くなったからといって、決して無一文になったわけではない。多少の貯えもあれば、多少の財産は残っていよう。もし財産も貯えも皆無になったからといって、身体ひとつは残っていよう。その身体までが病気などで、思うように使われなくなったからといって、絶望するにはあたらぬのだ。人間は最後まで続く心というものがある。この心一つが残っていれば、安心立命の方法はいくらでもある。両方の肺を失ってしまって、病床に沈吟しているほか、何ともしようのないような人で、壮健なものも及ばない、立派な覚悟を持ち、平和と満足に満ちた幸福な生活を送った者は、数知れぬほどある。いな人間世界に神仏の福音を伝えた立派な人には、かえって、そういう人が多かった。この心ひとつはそれで極楽も造りうれば、地獄も造り得る最も有力な資本である。最も高価な資本である。しかるにわずかの失敗や、不幸で別に財産を皆無にしたというのではなし、ただ少し世間に対して体裁が悪いというだけで、血迷ったり、気が狂ったりして、この最後の資本を失ってしまい、いかなる機会がいめぐってきても、もはやそれを掴むことのできなくなるのは、わずかの用意が足らないからである。平素の心掛けが悪いからである。

生田松太郎(生田天涯)著『途方に暮れた時』より


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私も改めて読んで、
迷って、わからなくなった時
捨てるべきは執着
活かすべきは心
と思いました。