前回の投稿で、世界でも人気の高いジャパニーズクラフトウイスキーの歴史の中で、
笹の川酒造の名前は欠かすことができないと紹介しましたが、
ジャパニーズクラフトウイスキーの礎を築いた秩父蒸留所の原点がここにあるからです。
というのも、笹の川酒造がなかったら、
香港のオークションで8000万円の価格をつけ、世界にその名を知らしめたイチローズモルトの原酒が、存在しなかったかもしれないからです。
秩父蒸留所の設立者、肥土(あくと)一郎さんは、老舗酒蔵に生まれました。
大学を卒業後、ほかの会社に勤めていたのですが、
父から業績が思わしくないので、戻って助けてほしいと呼び戻されたそうです。
そのころ、日本酒の売り上げはどんどん落ちていて、
安く、大量にさばくことに活路を見出そうとしていたようです。
しかし安かろマズかろで、負のスパイラルに入ってしまいました。
結局父の酒蔵は他人の手に渡ることになったのですが、
肥土さんの父親は、かつて、ウイスキーの販売も行おうと思って、多くの原酒の樽を手にいれていました。
一郎さんが戻ってきたとき、蔵人はまずい酒だ、といっていたそうです。
日本で初めて造られたスコッチタイプのウイスキーは、まだ日本人の舌にはなじんでおらず、全く売れませんでしたが、
一郎さんの時代には、ウイスキーは広く飲まれていました。
一郎さんもウイスキーを飲んでいて、当時のことを思い出して、味がどうのではなく、ただ酔うために飲んでいたといってました。
そんな一郎さんが、
蔵人はまずいといっていたウイスキーを、面白いと思ったそうです。
たしかに飲みやすいウイスキーではなかったようです。
が、たしかな個性、存在感があって、こういうウイスキーを好む人は、必ずいるはずだと、
モルトウイスキーの息づかいを感じ取っていたようです。
しかし、その原酒は、いま行き場を失っていました。
このままでは、廃棄処分しかありません。
父が残したこの遺産を、何とか救うことはでいないか。
必ずいつか認められる日が来るに違いないこの原酒を、できれば残した。
一郎さんは、いろいろなつてを頼って、ひき受け手を探しました。
そこに、福島県の笹の川酒造が手を挙げたのです。
じつは笹の川酒造も以前、ウイスキー造りをしていました。
しかし世はウイスキーの冬の時代。
やむを得ずウイスキー造りは中断。
そういう素地があったからこそ、笹の川酒造が引き受けてくれたのかもしれません。
(*あくまで投稿者の勝手な思い込みで、もっと複雑な事情があったとは思いますが…)
イチローズモルトが世界の注目を浴びるまでには、まだまだ様々な紆余曲折があるのですが、
本投稿のテーマではないので、スルー。
しかし、笹の川酒造が引き受けてくれなかったら、今の秩父蒸留所は存在しなかったもしれないし、
ジャパニーズクラフトウイスキーの世界的人気も、どうなっていたかわかりません。
一郎さんの後押しと協力がって、笹の川酒造はウイスキー造りを再開しました。
いまでは、世界的なウイスキーコンペで金賞を獲得するまでになっています。
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日本のクラフト蒸留所については、こちら。