現代に息づく「縄文」の食文化

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第二十回 里芋

七月早々に最近流行の惣菜の品にちんまりと里芋がおさまっている。一口食べてみると、本来の味には程遠いが早生特有の粘り気がある。どうやら九州宮崎産のようだ。


近年までは陰暦八月十五日過ぎでないと、里芋の出荷は出来ぬきまりとなっていた。この日は、芋名月とも呼び、芋作りの農家では夕月の登ってくる方角に竹または稲木を三本束ねて三方に拡げたたちまちの上に、今年もっともできのよい芋(まいも)を束ねて宙にのせる。地方によっては、鯉のぼりの竿の先に取り付けたり、昭和17年までは新居浜市西ノ土居、庄内によく見られ、四国中央市土居では昭和63年まで見られた。この風習を今なお守りつづけている一家が新居浜市角野新田にある。全国的に見ても、奈良県十津川村にのみ風習が残り、日本に二箇所のみである。数年前突然、東京の民放のテレビ局の問い合わせで知った。


写真4

(芋名月)


当日、月神の依代としてススキの穂などの秋草や田畑の初物、果実、月見団子を供える。
ススキの穂は魔よけと考えられている。調べてみるとベトナムの風習だ。ベトナムの水田では田の畔にネズミ・モグラが横穴をあける、そのため水が抜けるため、穴にススキを押し込み水漏れを防ぐ。同じ風習が台湾のタイトンの南ランツエイ島でもみられる。里芋の原産地スマトラ・ベトナム・台湾と黒潮の流れに沿って南方系の人々がもたらした産物である。


戦後まもなく私は土佐中村に住み着いた。四万十川の河口の森の中に食わず芋が茂っていた。サトイモ科だが、にがくてとても食えぬ。同じ芋が、与津岬、室戸岬にもある。この話を、当時、静岡石廊崎熱帯植物園長古里和夫氏に伝えたところ、同氏は間もなく、フィリピン出張の帰り、芋の苗を送ってくれた。茎を食べるというが、灰汁がなく、生で食べられる。これに似たものが土佐の茎芋だ。近頃は高知の日曜市にもよく出ているが、この芋の茎を切り取り、二杯酢にすると、さっぱりとして味がよい。私の小さな畑にも植えてある。宿根性であるから、一度植えて藁でもかぶせておくと年々食べられる。


写真6

(茎芋)


夏の風物詩芋たきが県内各地で盛んになってきた。重信川、小田川、肱川、岩松川、加茂川、国領川、関川と九月いっぱい各地の河原で盛んに行われる。もともと家の座敷で台をつくり、先祖様に秋の産物を供え、おがむ風習が、江戸中期には庭先に座を作るようになり、畑に出て行われ、河原で盛大に行うようになった。大切なことは、部落のすべての高齢者への接待である。芋名月の三日前から、部落の少年たちが河原で窯を作り、腰掛け石、当日の薪集め、少女は家から持ち寄った芋、川魚、エビ、サワガニを出汁に取り、ナスやキュウリを用意して炊事を始める。頃合になると少年たちは老人をそれぞれ案内をする。老人たちは少年、少女たちを褒める。


これをいつまで続けていたのか。寒川町原口(現四国中央市寒川)の老女が生々しく語ってくれた。1955年(昭和30年)例年の通り最寄の日曜日の朝、長谷寺の東側の川原で芋たきの用意を始めた時、部落担当の教員が旧習打破の悪口を並べ立てたので、この年を最後にして子供会としての行事が終わったという。この催しを楽しみにしていた地域の老人たちは次の年になぜ止めたのかとぶつぶつと言ったのでつらかったという。


戦後、河原で芋たきまつりが最初に復活したのは大洲の方だったというが、最近はどこでも盛大になってきた。

庭先で洗濯物を干すときに使うたちまち(三叉)に親芋をまつるのは、西条、新居、宇摩郡だけでなく、浮穴郡の方でも行われていた。面河村、直瀬川上流の老女の家はなかなか分かりにくく、途方にくれて近くの郵便局を訪ねてみると、「ああ、それは私の叔母の家だ」と案内してくれた。


写真10

(面河村)


きいてみるとこれより上流の段・永子(集落名)でも芋名月として行っていた。帰りは川内町井内峠トンネル越えを試みたが、道が悪く、結局、久万への道を選んだ。


芋名月だけでなく、正月の芋神様祭りも忘れてはなるまい。正月三日、私の家では餅を食べない。餅なし正月だ。まず大晦日、床の間に親芋を供え、元旦になると家長は川水で身を清め、早朝一同は座敷の床の間に居並び、声を出さぬ。家長は新年の挨拶の後、孫たちをはじめとして一人ひとりに、旧年の反省と新年の誓いを聞く。誓いの後、一人ひとりの頭に芋神様を祭った盆をストンとあてる。朝食は簡素な芋汁、飯ですまし、餅はシトギモチ、もちは使わなかったらしい。この風習は集落として行うのではなく、家独自で行っており、旧家では伝統として守って今日に続いている。


写真7

(正月の芋神様祭り)

第十九回 黒米

 白米と黒米の苗を植えて収穫してみると、必ず、白米のはずなのに赤い玄米が現れてくる。白米の開花前にあらかじめ葯(やく)を除いて、袋かけして除雄してある頴(えい)に赤花の花粉をふりかけ、再び袋をかけて1か月後に収穫した玄米は、ことごとく赤い。メンデル式とは異なるから、これを非メンデル式遺伝というが、赤色が優性であることははっきりしている。これから考えて,私たちは、古代の米はすべて赤米ではなかったかと考えている。


 赤米が文献に出るのは、聖武天皇の時代で、天平6年(734)の尾張国の収税帳が初出といわれる。インド型赤米の渡来は、奈良朝から平安末期といわれるが、ここで述べる黒米は、新しいようだ。私は、昭和59年(1984)に中国雲南省で、国境の町景洪(ジンホン)で赤米、思茅(スーマオ)で紫糯米(しじゅまい=もちごめ)を街道市で見かけた。この紫糯米を日本では、黒米といっているように思う。事実、ここの紫糯米は、ウルチ米とモチ米との中間的なでんぷん質である。


 昭和43年3月に発行された『在来稲の特性表』(農林水産技術会議発行)を見ると、赤米は在来稲1302点のうち赤米は68品種にとどまり、黒米との記述はない。これとは別に、長野県の唐木田清雄から、平成4年(1992)にいただいた資料を見ると、黒米については、千葉県、東京都府中(中国原産)が記されている。あまり古くはないが、最近、薬用としても使用されるようになった。


 私は、同氏から中国産の黒米を譲り受け、平成3年から今日まで、自分で栽培したあと、最近では新居浜商工会議所の有志、各界の知友の応援を受けて、黒米の商品の実用化に取り組み、その販売活動に力を注いでいる。


 赤米、香り米、黒米は、それぞれ古代米のグループなので、関係している学会の名称も、現在、日本古代稲研究会として活動している。対馬の赤米伝承に詳しい城田吉六さんの本をあけてみると、雲南省の紫黒米は、同氏の娘さんが上海大学に留学中に、雲南省に旅行して播籾を入手して送ってくれたというから、これも戦後のことのようだ。


 黒米に注目したのは、その色の黒さからだ。黒米を、ごく少量白米に加えて炊いてみると、黒米の周辺の飯粒は、赤く変色している。赤米は炊いてみると、色が薄くなり、酒に加工してみると淡色になりすぎて困る。何とかならないかと、知らない人からも問い合わせがくるようになった。育種の技術を生かして、元の色に返るように助言しつづけたが、ある時、ふと黒米を使ってみることを思いついた。


 黒米の添加量を代えて日本酒を作ってもらうと、色が薄くなると濃紫黒→紫→淡赤→黄色に変わった。これにある天然生物色素を少々加えたらよいことに思いついた。目的どおりの色が出る。ここが酒作りの杜氏の腕の振るいどころだ。どこか研究費でもはずんでくれるところがあれば、その秘法をあかしてもよい。


 長野農業試験場で開発した紫黒米も、収量は高く400kg/aあたりとなる。しかし、一般のモチ米品種には及ばない。したがって、 それなりの高価格でないと、生産の増加は望めない。
 

 赤米、黒米が注目されるのは、赤米の糖層にある色素はタンニン系、黒米の糖層はアントシアン系である。完全に搗精(おうせい)すると白米となる。これらの色素米は、玄米のままで混米、粉砕されて利用される。色素は、少々残す程度にして搗精、あるいはパーポイルド(蒸煮)ライスにして、色素を胚乳部分に移行させた後に搗精して利用したり、水アメを製造したり、色素抽出して色つきの飯や餅、めん、酒、製菓の原料として使うことができる。色素米には、ポリフェノール物質が多く、各種のビタミン(B類、E、Pなど)、鉄、Caなど、有用無機成分に富み、健康食用の素材として、たいへん期待されている。


 新形質米の生産、流通の取り組み事例集(農林水産技術情報協会、2001)

第十八回 赤米(3) 民俗

 高知県幡多郡西土佐村、中村市竹屋敷では、正月の松飾りとして、アカモチとシロウルチの穂を、玄関の左右に取りつける。松は表から見て、左側がオンマツ、右側にメンマツ、枝は3枝以上、それぞれ、ウルチとモチ稲をぶら下げる。(家によって多少異なる)


 十和村古城・地吉では、愛媛県北宇和郡犬飼、音地の山中の県境となる高森山(769m)に、境の地蔵がある。この地蔵には、旧暦の3月24日に、村人たちが種穂を持ち寄って祭る。その時、青年たちは神を慰めるために、相撲で力くらべをする。


 高知、徳島両県の百姓たちは、あいつどって酒を酌み交わし、めぼしい娘を物色して交渉したりする。また、この時、成長した牛を伊予の博労(ばくろう)に売り渡したり、子牛を預かって育てる交渉をするなど、たいへんなにぎわいを見せる。私は、昭和60年ころ、調査に出かけたが、目指す山頂の左右を間違えて、祭りに出会わず、2、3日あとに再び出かけ、祭りの後を楽しんだ。


 当地方では、赤米のことを「アカタイ」といい、上浮穴郡美川村有枝の宝坂トミ子さんに聞いてみると、畑で作るのは「ノイネ」、焼畑で作るのは「シャク」といい、冷えたらパラパラの飯になるが、ノゲも長い。これも赤米だが、もう見当らんだろうという。土佐の民俗学者の桂井和雄氏の記録を見ると、赤米(タイトウマイ)を炊き、ホウボウ(魚)2匹を供える。赤米がない時は、ベニバナの紅で色づけをするか、小豆で赤くする。この紅花寿司は、明治時代に南予の方で盛んに行われた。


 ビルマのカチン族では、接待に赤飯を出すが、タイ北部のアカ族でも行う。昭和59年(1984)に、私は、中国雲南省昆明からシーサンパンナを、国立遺伝学研究所の連中と一緒に稲作調べに出かけたが、いたるところで赤米、黒米、白米を街頭市でかなり見かけた。これを機会として、これから、日本国内に黒米が登場することになる。

第十七回 赤米(2) 本物見つかる

 昭和36年(1961)に、高知県幡多郡中村市の高等学校に職を得た。当時、テレビはほとんどなく、子どもたちは近所のテレビのある家へ、見せてもらいに行っていた。近くの川で夕食の菜にと、フナつりをしていると、通りがかりの百姓が話しかけてきた。話の中で、「こんな米を探しているのだが…」と、ぼそぼそ語った。すると、意外なことに、郊外の敷地部落のずっと奥になるが、北の竹屋敷に行くと、あるかも知れないというやり取りだった。


 早速、休日にバスに乗って出かけてみた。バスの終点の押谷口から、谷沿いに登った。はじめ、村人は“隠し田”がばれるのではないかと気を回し、ほかの所を教えてくれたため、見つけられなかった。次の冬休みに、雪道をかき分けて、炭焼き小屋のあるどん詰まりの民家にたどり着いた。


 正月の4日、入り口に門柱として稲穂も差してあるので触ってみると、なんとそれが赤米だった。はやる気持ちを押さえて、まず目的の匂い米のことを聞いた。納屋の上に保存してあった匂い米を、分けてもらった。


赤米写真1



 再び出かけ、栽培田地を見た。納屋のそばの小さな水田に、匂い米を植え付けるが、赤米は植えつけたおぼえはないのに、毎年、生えてくるという。どうも、風で自然に籾が落ちるらしい。自家用だから、別にどうということもないが、育つにつれて、他の稲よりずっと大きく伸び、たくましく育つので、ある程度は刈り取る。


 「何といってもうまいのは、この匂い米だ。普通の米に少々加えるが、うまいことは日本一じゃ。ただし、ここで稲作りしていることは黙っていてほしい。『米がない』『米がない』と、お上はやかましいが、ここまではよう上がってこん」とのことだった。


 私は、約束を守って、20年近く、赤米のことは一切、伏せておいた。ただ、九州大学の永松先生には、昭和39年(1964)に届けておいた。赤米は、水田中に生える雑草とみなされていた。昭和40年に、永松先生から、朝鮮海峡の対馬へ行かないかと誘われたが、旅費の工面ができず、行かないままに過ぎた。


 平成元年(1989)の夏、思いたって出かけてみた。赤米は、豆酸(つづ)のお宮の寺田で栽培されていた。青々と茂る葉の中で、すっくと伸びているので美しかった。籾は茶褐色、玄米の色は赤褐色、日本型粳(うるち)である。ただ精米しただけで炊いてみると、バサバサして粘り気が足りない。


赤米写真2

(多久頭魂神社:たくずだまじんじゃ)


 戦後、赤米に注目して再発見したのは、柳島純雄氏(1962年、長野市篠ノ井市内)、次いで、坪井洋文氏(徳島県西祖谷山村)が、一宇村で「野ゴメ」として発表した。そのあと、一井真比古氏が、1987年に徳島県池田町で見つけられた。

第十六回 赤米(1) 赤米栽培の復古運動

 最近、赤米栽培の復古運動が活発になってきた。


 私が、稲の改良の基本になる在来稲を調べようと思いたったのは、50年前のことである。その当時、私に指導、助言してくださった大倉永治先生(元岡山大学教授、近交系ニワトリ育種の第一人者)、永松土己先生(元九州大学教授、日本育種学会副会長、在来稲の研究でも知られる)は、すでに亡くなられ、東北の稲に詳しい伊東信雄先生(元東北大教授)など、振り返ってみると、これまでにたくさんの方々にお世話になった。


 日本で最古の稲作遺跡は、3,100年前の佐賀県唐津市の菜畑遺跡(工楽1991)といわれ、福岡県、山陽、近畿、太平洋側とつづき、四国には少ない
 
 昭和32年の国内の稲作は、4年つづきの大豊作で1,200万トン(8,000万石)で、たいへんな豊作だった。明治の初めからみると、反当りの収量は2倍になった。この米も、昭和初期の上海事変、やがて第二次世界大戦と、戦場が広がるにつれて、国内産米はかなり外地用に積み出され、国内での需要は大幅に削減された。


 戦後、都市部の消費者は、代用食さがしに奔走した。衣類を持ち出して闇米と交換し、町の人々は闇米を求めて田舎へと殺到した。そうした経験は、70歳代以上の人々の記憶に残っている。楠公米といって、米を二度炊きして飯をふやかし、見た目で量があるように見せる工夫もしていた。当時、中学生だった私は、自転車こいで2時間ほどかけて田舎に出かけて、大根を買ってきた記憶がある。


 香川県本山町の酒造会社では、使用していない工場内で、アメリカに爆弾を落とすために、飛ばすのだといって巨大な紙風船を作っていた。その紙風船づくりに使用するノリは、コンニャクイモから作った。風船爆弾は、青森からアメリカに向けて100発放した。その効果は、カナダの森を2箇所だけ焼いたそうだが、ほとんど役に立たず、大部分は行方不明となったそうである。
 
 窮乏の生活も、終戦から10年で終わり、やがて人々は、まずい配給米より、田舎の新米を選ぶようになった。農協や食料公団の倉庫には、売れない米があふれ、公団では始末に困りはじめた。農協の倉庫には、古米ならぬ古々米もあらわれた。そんなこととは知らないまま、私は、米のうまい、まずいは何で決まるのか。うまい米とは、どんな地形、地質で作られるのか。ということに興味を持つようになった。


 うまい米を探し歩いて5年、どうやら平地より山間地の方がうまく、谷水を取り入り込んでいる田地がよさそうだと気がついた。農協の指導が行き届いているところは、多収品種の改良種ばかり。収量は少ないがおいしいものは山奥らしい、という見当がつきかけた。病気で休養した数年間、時々、私は山間地に入り込んだ。ここで、初めて陸稲のことを教わった。昔は、赤米がほとんどで、収穫は、籾(もみ)すり機ではなく、穂を焼いて横木に打ちつけて、籾だけをかき集めたなど、驚くことばかりだった。寒風山トンネルの北側あたりで、帰りにどっさりとスモモをいただいて帰った。最近たずねてみると、そのあたりは、無人の集落となっていた。

第十五回 古代茶 古代茶よみがえる

1200年前、日本へ伝わってきた古代茶(醗酵茶)が、各地にごくわずか残っている。四国では、高知県大豊町の碁石茶、愛媛県では小松町石鎚地区の石鎚黒茶、徳島県では那賀川、勝浦川の中流より上流に阿波晩茶、香川県には今はなく、古代茶の痕跡は竜王山・大滝山の山地に残っているに過ぎない。


どの地区にも山の茅原から刈り取った草に、豚、牛の糞尿を加えて作った堆肥主体、昭和初期から一時、化学肥料主体だったが、今は少しずつ天然肥料に取りかえられ、いわゆる無農薬・堆厩肥(たいきゅうひ)栽培へ切り換えられつつある。


40年前、四国中央市新宮町の大西敬四郎さんは農業高校卒業後、静岡県茶業農家に6年間住み込み、これからの茶作りは茅・ススキに家畜の糞尿・微生物の働きを利用したぼかし堆肥の時代と自覚して、これに挑まれ、数年間、大変な苦労をしたと、同氏の母堂から直接お聞きした。


これより少し遅れて、同村内脇製茶園主、脇博義さんもこれに共鳴して、普及に努力し、今や全村にひろがっている。


私は数十年間、村の取り組みの様子を時々訪ねては、茶作りの変貌を見つめてきたが、茶に対して賢明な村役場の首脳部が理解と協力をしたことは幸せであった。それに比べて村農業協同組合は勉強不足、新しい時代への対応がどうも遅かった。


数年前、脇社長が来訪されて、新宮茶の拡販のためアイコープ全店に販売できないだろうかと相談にみえられた。早速、アイコープ理事長に会い、話を纏めた。


理事長から、
「県内のアイコープ、愛媛生協にも出せるか」
と言われて、


脇社長は、
「年中、切らさないように努力する」

と確約。この時、アイコープと県生協と合併する下話が出来ていたらしい。まもなく合併して今日に至っているが、健康と食との関係に敏感な若い主婦にも受けて順調に販売が伸びていると聞く。


消費者は着色料や保存料などの食品添加物の恩恵を受けているが、果たしてこれで良いのだろうか?


私たちはもう一度、鮮やかな黄色系化学色素で染まった大根漬けより、古風かも知れぬが朝鮮クチナシの実を砕いて加える天然黄色色素によるオレンジ色のタクワン漬けに戻るべきだと思う。


古代茶の味も梅酒、レモンを少々加えるとか、若い女性方はなかなか元気に工夫される。近年は黒米同様アレルギーに効くとか、若い方はいろいろな試みに挑戦して、私自身教えられることが多い。


私の知人が「健康のために良いから、地下水を毎日4リットル飲む」とか言ってるが、私もできるだけ飲茶の形ででも水分を体内に取り込むように努力している。


古代茶は道の駅、産直市でも販売が始まり、かつての失敗品「ウマグン茶」と言われる不良品は出なくなった。

第十四回 四国の山茶の展開

 茶には、栽培上の区別として中国種、インド(アッサム)種、インド雑種がある。ほかに、変種として唐茶がある。中国の唐代には、磚茶(タンチャ:薄板状に固めて使う。シベリア、モンゴル地方で常用)が使われた。宋代には、緑茶がはじまり、日本へは奈良時代に伝わったといわれている。


 アジア大陸と日本との交流は、海流と季節風を利用して行われた。ツングース族、アイヌ族、朝鮮族、倭人などとの交流があった。


 天平勝宝4年(752)には、遣唐使が中国に出かけた。その出港地は、大阪難波の三津浦(南区三津寺町)とされている。そこから、瀬戸内海を経て山東半島(北路)に着いたが、のちに南路のコースで、揚子江へは船4隻で14回も往復している。


 大同2年(807)、空海が遣唐使とともに中国に渡り、数年後に帰国した。空海の書「三教指帰」の中に、「橡飯・荼菜」の言葉がある。この荼菜をニガナと解釈した学者がいた。のちに篠田統博士が、「これは本来『チャ』という語がなかったことによる誤訳であって、チャと解したらよい」と直された。


 空海の生地は、讃岐(香川県)であり、満濃池の改修でも知られているから、四国の茶作りはどこからはじまったのか調査してみた。



川をさかのぼりながら製茶の方法が伝えられた

 当時、都から四国に渡るには、紀州、賀太(和歌山市)から紀淡海峡を通って淡路に至り、鳴門海峡を渡って阿波(徳島県)に入った。上陸地点は、旧吉野川の河口から勝浦、那賀川付近、とくに薄生田岬近くと思われる。このあたりは入り江が多く、数多くの小鳥が散在している。人々は、近くの小高いところに住みつき、集落を作った。延喜式に見られる那賀郡式内社として宇奈為神社をはじめ七座が、いまに残っている。


 鷲敷町の持佛院、太龍寺、相生町の大宮八幡宮があり、那賀川、勝浦川、その他に茶作りの技術が伝わった。これが、今日、阿波晩茶(後発酵茶)の形で残されている。那賀川をさかのぼると、木頭村に木頭晩茶がある。さらに、川をのぼれば土佐との県境の四ツ足峠がある。このあたりはトチモチ作りの里だ。峠を越えると、槙山の小松神社、神通寺跡がある。さらにひと山越えると大豊町の定福寺、豊楽寺がある。その近くには、小笠原さんの作る碁石茶がある。


 定福寺の北には、西祖谷山村の有瀬の茶(「青龍」と銘される緑茶)、愛媛県新宮の茶へとつながる。大歩危、小歩危の吉野川を越えれば、徳島県山城町、つづいて愛媛県の新宮村、支流の銅山川(伊予川)をさかのぼると金砂、富郷、別子山へとつながる。茶の製法も、その川に沿って移動していった。


 本流の吉野川をさかのぼり、手箱山からヨサコイ峠を越えれば旧石鎚村に出る。そして、諏訪の石鎚黒茶(前発酵と、後発酵による酸茶系団茶)につながる。新潟県、富山県に残るブクブク茶は、前発酵のみで乾燥させたプーアル系の発酵茶である。


 蒸したあと桶につけるラペソ系の後発酵茶としては、前述の阿波晩茶がある。吉野川、勝浦川、那賀川、それぞれの流域の桶茶が、栄西がもたらした抹茶に移行したのは、その実用性が買われた上に、武家社会での精神性が加わったためである。


 江戸期にいたると、茶は庶民にも広がった。しかし、次第に財力を貯えてきた庶民に、武家は、腹立たしくなった。元文3年(1738)、抹茶作りの宇治で煎茶が創製され、10年後に大流行した。玉露の登場は、江戸文化の華、元禄時代といわれ、今日に伝わる。


第十三回 雑穀2 ヒエの調理法

ヒエ飯は、
(1)湯を沸かし、ひき割りしたヒエノミを入れて炊き、頃合を見計らって杓子でよくかき回す。
(2)七八割ほど炊けた時、ねばを取り上げ、とろ火で蒸し上げる。


ヒエダンゴは、
(1)風選の時、未成熟な種実は煎り鍋で煎り上げて石臼で製粉する。
(2)これを熱湯でかき回してダンゴにする。
(3)汁に味噌を加えたりもする。水量を多くして粘り気のある粘(ねば)えとして食する。


他に、モチやアワモチの回りをアズキアンでくるんだものを「アズキモチ」という。


シコクビエ(写真1)は、雑炊風の味噌汁にダンゴを加えたり、粉もちとして蒸し上げたり、また粥状にして麦芽を加えてアメにして食す。


ヒエを味噌、酒に加工しているかどうかを調べてみたが、高知県吾川郡下ではヒエ味噌を作る。酒についてはなかなかに語らぬが、ドブロクとして作ったらしく、近所の人を呼んで脱穀した後、飲んだことがあるという。


ヒエ一升蒔くと、四石採れるからシコクビエと呼ぶのだと岐阜県奥で聞いたことがある。西条市風透(かざすき)部落では、私の出した写真を見て、「これは弘法ビエ」と言った。


大変収量が多く、大切に育ててきたが、今は注文さえすれば、どこであってもコメが手に入るから、弘法ビエ作りは廃ったという。


近年、雑穀の栽培は急減し、平成10年、高知県香美郡物部村に残っていると思った「シモカツギ」というヒエは消えてしまっていた。晩生で豊産であった「シモカツギ」が失われてしまって残念である。


文献で見る限りでは、300年前種子島から上陸した数種類のトウモロコシは、日本各地に拡がったことになっている。しかし、昭和30年代の農林水産省の中央研究グループの調査によると、西予市小田町付近では20数種にも及ぶトウモロコシの種が発見された。そのことを考えると、もっと古くから古代海上交通路から日本の各地に様々な種類の雑穀が伝わり拡がったものと、私は見ている。


小田町のトウモロコシも現在ではわずか10種足らずに激減してしまっている。古代の建築物・美術工芸品、秀でた音楽、踊りばかりが文化財だろうか。数千年各地にひっそりと栽培されていた雑草の仲間、雑穀も大切な保護文化財ではないだろうか。


12-5 (写真1.シコクビエ)

愛媛県西条市風透(カザスキ)標高700m・川來須標高800m
当地ではこのシコクビエを弘法ビエと呼んでいる。豊産だが味は落ちる。味は白ビエが最高である。東津郡の方ではカモノアシとも呼んでいる。昭和49年、私がネパールで見たものとそっくりである。

第十二回 雑穀1 200年近く保存されていたヒエ

雑草の仲間から選び出されて栽培され続けて数千年、今は少数派の雑穀アワ・ヒエ・キビ・ハトムギ・ソバ・ムギはかつて原産地である東南アジアから隊商の群れが食料として草原地帯を迂回した形で旧満州、シベリアから移ってきたとみられ、特に日本人の食生活にとって重要な役割を果たしてきた。


最近はアフリカ・インドに旅行する人も増えて、私たちの聞き慣れないインドのサマイ、エチオピアのテフなども雑穀の仲間である。

現在はイネ・コムギ・トウモロコシの栽培が目立つが、雑穀には次の特長がある。

1.土壌・気候条件不良に耐える力がある。
2.旱魃に強い。
3.粒は小さいが、病害虫に強く、安定した収量が期待できる。
4.長期間にわたって、保存ができる。


雑穀に対して、現在ほとんど関心が払われていないが、私は高知県土佐郡大川村小麦畝、高藪へ入り込んだ時、小川のそばにある旧小学校分校跡地の農家にある納屋の奥の貯蔵庫を開けて見せてもらったことがある。


なんとこの納屋の中に、天保期の名札の入ったヒエ俵を見て、驚いたことがある。村人が飢饉に襲われた時、開放して、救うのだという。これが200年近く保存され、古びた家を改めて見直したことがある。台湾ではモチアワが地酒の原料、秋のアワ祭り、その他の儀礼にはアワモチとして供進される。


1970年代、四国山地のあちこちに入り込み、集落に栽培されている様を見に行った時、少量だが、広く自家用として栽培されていることを知った。

12-1(写真1. 高知県東津野山村芳生野)

12-2(写真2.左よりネコノテ、アカアワ、野良(野生)、シロキビ(コキビ))


坂本寧男先生の説によると、雑穀栽培の一大センターはインドデカン高原、パキスタン北部カラコルムの山村を回ってみると、稲作以前は、雑穀、イモ類の栽培は行っていなかったと見られていなかったが、実は雑草と共にイネも混じっており、イネの成熟期にイネを刈り取り、別の時期に雑草類が繁茂しているようだと書かれてある。

12-3(写真3.イヌビエ)

田の中にイヌビエという雑草の存在を目くじら立てて除くことの程はないのだと覚った。
うっかりすると雑草とみられるヒエが稔っていることがあるが、鳥の飼料にでもと思っても良い。


燧灘に臨む法皇山脈の中腹に展開する集落を歩いているうちに気がついたのは、早くから成立していた四国中央市鳶畑と積善とが典型的な例である。


江戸期鳶畑では谷向こうの積善に、中、大型の出作り小屋を設け、ヒエ・アワ・シコイビエ、芋類を出作りとして畑地を拡大していったが、江戸の終わりから明治にかけて分家として独立させた集落である。


雑穀の栽培法は別の機会に譲るとして、収穫物の脱穀法はコメに比べてやや複雑である。
ヒエは、木臼に入れて立杵で突き立てた後、風選する。他地区で見かけたのではヨコヅチガチというT型の木棒でたたき落としている。


12-4(写真4. みんなで石臼を回して粉を作る)

風選は箕で行ったり、持ち帰って唐箕で行う。これで終わりかと思ったところ、石臼でもう一回精白し、唐箕で風選を繰り返し、ひき割りを利用する。

第十一回 青森ではクリ、北海道ではナラの実 ドングリ(3)

数年前青森県下北半島恐山山地へ、周遊バスで出かけたことがある。一行の目的は恐山信仰参りだった。三沢空港に降り立ち、下北半島を北上するバスの窓から私は戸外を見つめた。まったく四国とは風土が異なり延々と続く砂丘、時々霧が前途を塞ぐ、至る所にヤマイモ畑、眼につくのは松林ばかり。一泊後、帰りに十和田の奥入瀬・十和田湖めぐり、東北自動車道を走った。


十和田周辺では奥入瀬渓流沿いに歩いたが、かなりトチノ樹を見かけ、実も拾い、現地の住民に声をかけてみたが、まったく利用していないという。


ここではクリは使うが、渋抜きに手のかかるトチノ実は放置されたままだった。道理でとなりの青森市内の三内丸山遺跡からおびただしいクリが大量に出土するはずだ。


北の北海道ではナラの実が、アク抜きして使われていた。


昭和35年北大理学部付属植物園を見た後、藻岩山・真駒内の雑木林に入り込んでいると、
「何を調べているのか」と壮年の方に尋ねられ、その方のお話をお聞きしていると、ナラノミ・カシワを救荒食として利用していたという。団子にして食べるが、貯蔵するにはいったん煮立てた後、乾して、俵に詰め、天井裏に保存するそうだ。


昭和30年代当時、手間のかかるナラの実よりも馬鈴薯を輪切りにして乾した切干の方が一般的に行われていた。馬鈴薯は凍(しば)れいもの形で冬を越し、臼でついて食べるのも広く行われていた。