現代に息づく「縄文」の食文化 -2ページ目

第十回 ドングリの貯蔵穴を見つける ドングリ(2)

昭和43年(1968)頃、私は、対馬にある赤米がどこからきたものか調べていたところ、長崎県の小学校長さんから手紙をいただいた。早速、資金集めをして出かけたが、荒天で対馬への船が出ぬ。止むなく引き返し、天草地方を回ったことがある。再び思い立ち、長崎市を経て対馬に渡ったのは平成元年(1989)。


この頃、縄文時代から弥生時代・古墳時代にかけて作られたであろう貯蔵穴が各地で発見されたが、何を保存する目的で掘られたものか、学会で充分分かっていなかった。門外漢の私にとっても、そういった情報は知らなかった。ちょうどその頃、高知県香美郡香北町の遺跡発掘を見学に行き、貯蔵穴を見つけ、そこの調査担当者に話したが、まったく取りあってもらえなかったのか、その後の連絡はない。


ドングリのアク抜きについての江戸末期の文献を、私はすでに発見していた。ドングリの貯蔵穴が恐らくどこかに残っているはずと目安をつけて、対馬に出直した。一つには20年前に果たせなかった赤米栽培の実状も見たかった。


数々の資料を提供してくれた長崎純心女子短期大学元助教授城田吉六先生に同行してもらい、先生の幼年時代の記憶をたよりに、対馬のあちこちを調べ回った。


先生は「わしは無断で島外に赤米を持ち出したのではないのに、村民は勝手に持ち出したと誤解して、以後この故郷へは戻った事はない、残念だ」とこぼされていた。


先生が戻られた後、私は一人残って、翌朝、藪の中に立ち入り薮蚊に攻められながら、汗みどろに探し回った。そして、ついに見つけた。多久頭魂(タクズタマノ)神社の社有林だった。付近に米増産のためにと、権現川の境いまで畑地・藪地はすべて水田となっていたが、わずかに神社林のみ保存され、手をつけられていなかった。


樫ぼの(ドングリ)貯蔵穴は、現実に遺存することは珍しく、古墳時代以降の発掘例は皆無、石材の豊富に産出する対馬ならではの産物である。


これまでに長崎県下では、伊木力遺跡(縄文前期)、名切遺跡、佐賀貝塚、中島遺跡、里田原遺跡、津吉遺跡、今福遺跡と次々に弥生時代にかけて報告が出されている。


興味のあることは、アク抜きの必要でないツブラジイ・スダジイ・イチイガシなどがたくさんあらわれ、渋抜きの必要な樫は少し後で出土した。不思議なのはシバグリがまったく出土していないことだ。


第九回 カシの実を使った料理 ドングリ(1)

愛媛県美川村(久万高原町)で昭和36年春、当時中学生であった竹口義照さん宅付近の崖のすみから大量の貝殻(カワニナ)が出土した。竹口さんは、中学の森岡俊一先生に報告したことから、出土したものは一万年余り前、原始的な狩猟生活をしていた人々の跡であることがわかった。煮炊きの道具「土器」、けものをとらえる「石器」などから四国の古代の人々のくらしぶりが少しずつ見えてくる。


一万年前も現在と同じように春には、野山に食料に使える草木がおい茂り、秋には落葉樹林、照葉樹林から次々と木の実が落下する。古代の人々が食した木の実の中ではドングリ類が代表的なもので、一番食べやすい木の実はブナであろう。ついでコナラ、西日本ではアラカシ・アカガシが主である。


私は昭和40年代、剣山・三嶺・甚吉森と主に南四国を中心に食習俗についてしらべてみた。北四国の方では食習俗は絶えており、わずかに、香川県に三ヶ所。愛媛県では見当たらなかった。


9-1



高知県安芸市に残るカシの実の調理方法をあげる。

1.カシの実の採取は10月下旬から11月末

2.採取直後、数日間日干し、石台の上に並べ、握りこぶし大の石で叩き割り、風選

9-2

3.石臼ですりつぶし

9-3

4.竹ザルに木綿糸敷き、砕いたカシノミを入れ、流水中にさらす

5.ゆすいで引き上げ、石臼ですりつぶす

6.すりつぶしたものを木綿布袋に入れ、水を入れた鍋の中でもみほぐすと、デンプンが取れる

7.デンプン粉の上澄み液は捨てて、少しなめてみて、わずかに渋みが残るのがよい

8.深鍋で煮詰める。ゆっくりとかき回し、泡を除き、煮詰める

9.冷えたら、まな板の上で切り分け、水を張ったバケツに移す

10.毎日水をかえれば、一週間ほど保存できる

11.食べる時は、刺身状に薄切りし、タレとして麦味噌、にんにくの葉をすり込み、柚子酢を適量加える

9-4


高知県ではカシキリ・カシコンニャク・カシ豆腐、徳島県ではドングリもち・カシ団子と呼ばれている。儀礼食として徳島県海南町轟ノ滝の神社にカシモチ、高知県物部村小松神社ではカシゴンニャクとして伝わり、安田町前久保では金毘羅講や氏神様へのお供えとして用いられる。馬路村では吉凶事には必ず出される。

この食習俗は九州にもある。南九州天草半島ではカシコンニャク、長崎県対馬ではセンダンゴ・スブラと呼ばれている。

第八回 彼岸花を薬に使った老婆の話 彼岸花(3)

高知県土佐山田町の繁藤から、西へ穴内川貯水池沿いに曲がりくねって行くと、上流黒滝川へ行きつく。途中、小さな民家へ立ち寄った。鳥篭に、美しい小鳥を見つけた。「ピーリーリ、ポイヒービービ」。しばらくして「ジェッ、ジェッ」と鳴く。雌もさえずる。夏、このあたりに時々くるのだ。


鳴き声に聞ほれていると、老婆が夫とともに出てきた。盛んに小鳥をほめながら、チラッ、チラッと、私の表情をうかがう。


「5万円で買わないか?」「いや」…、だんだんと値が下がって2万円になったが、私は買わなかった。

高知の鳥屋に頼まれて、捕らえたものを買いにきたと思ったようだ。禁鳥のはずなのにと思いつつ、さびしい山中での生活を聞いてみた。


老婆は話しはじめた。


「私しゃ、うかうかして、爺さんにころばされれて、とうとう小学校も満足に卒業できんかった。子育てに忙しくて町へも出られんかった。ある日、足がふくらんで、立ち居もできんようになった時、爺さんは、私を背負うて、御免の病院に連れて行った。それから3年かかっても、なかなか治らんかった。


シレイの根をすって、足の裏に貼り付けると治ると聞いた爺さんは、すぐにシレイを探し回って、貼りつけてくれた。おかげで、見る見るうちに治ったから、爺もこうしてくっついているのだ」という。


小柄な彼女の堂々たる声に押されて、爺さんは、炭焼きの方法や、オオルリの雌をうまく育てたら、雄は寄ってくるもんだと、話しながら大汗をかいていた。


オオルリは割合い大きい鳥で、高々と高木の上でさえずる。このあたりの渓谷には、ゴジクガラ、ヒガラ、メジロも、ツバキの蜜を求めて大群でやってくるのだ。


昔は、赤荒峠を越えて、本山から土佐山田へ出た。近くは、山下奉文大将が、本山から山越えで、高知の有名な海南中学校(現小津高校)へ通ったというが、たいへんな道だったらしい。


今は、新しい道が抜けて、もとの道はなかなかわからない。

第七回 久万街道を歩いた人々 彼岸花(2)

標高700メートルの久万高原町三坂峠から、国道33号線とも分かれて、山道を一気に300メートルの高低差の急な坂道、通称「鍋割坂」を下る。この坂道は、明治20年に三坂新道(現国道33号線)ができるまでは、久万街道として久万、土佐を結ぶ公道だった。


この旧道は、今もへんろ道としての面影を残しており、最もへんろ道らしいと道として注目されている。この急な坂道を、あえぎあえぎ行き来した山頭火は、三坂峠の句として、「秋風あるいてもあるいても」の句を残した。


下りの最初の部落が「桜」で、うれしいことに、ここに「坂本屋」というへんろ宿が復活した。地元とNPO法人との協力でできたものだ。


「榎」部落から東方の窪野町へ入り込むと、ホタルの飛び交う御坂川沿いに、一遍上人の修行した窪寺跡まで、川岸に無数の彼岸花が群生している。


「桜」から「関屋」を経て、46番札所の浄瑠璃寺に出るまでに、「窪野」に寄ってもらいたい。窪野集会所には、四里塚も、正岡子規の句碑「旅人のうたのぼりゆく若葉かな」もある。


私の夢は、葉桜のころ、彼岸花の球根を掘り出し、「リンマン」ならぬ「シレイモチ」に、泥鰌の鍋を囲むことだ。

第六回 彼岸花の試食会 彼岸花(1)

粒食文化にどっぷり浸かっている私にとっても、時々、メン(麺)文化の象徴であるウドン、おやき(メリケン粉をといて伸ばし、砂糖を少々入れる)が欲しくなる。


以前、高知県大豊町でシレイ(彼岸花)モチの試食会に参加したことがあった。シレイのおやきを醤油に浸したり、黄な粉をまぶして、子どもたちはむさぼり食っていた。それを見て、恐るおそる試食していた大人たちの姿が、私の回想として出てくる。終いに、「もう少しないの?」と大人たちから声がかかるなど、意外と評判がよかった。腕を振るった昔の乙女たちは、その光景に笑い興じながら、シレイモチの試食会はお開きとなった。


彼岸花を植える風習は、江戸期に入って衰えたようである。もともと、彼岸花は、あぜの土砂を固めたり、モグラの穴ふさぎにも利用された。しかし、球根は、いつしか人々に忘れられたまま、史前帰化植物として、人手によって繁殖をつづけてきた。


シレイ(彼岸花)モチの試食会 彼岸花

彼岸花の球根の処理
(1)球根の採取は4月頃
(2)採取した球根の皮を除く
(2)
(3)茹でる
(3)
(4)立臼でつぶす
(4)
(5)(4)を木綿布に入れ流水につけたものをもみほぐし、デンプンをとる
(5)
(6)(5)のデンプンを乾燥させ、保存する。
調理する時は(6)の粉に水を加え、餅状にしたものに黄な粉をまぶして食す。

第五回 風化したトチノミの習慣 トチノミ(3)

徳島県、高知県には、山奥深くにトチ粉作りの伝承や、食べ方が、かなり残っていることがわかった。しかし、愛媛県の場合は、ほとんど消えてしまっていた。割りあいはっきりしていたのは、別子山村(現新居浜市)と、美川村竹谷(現久万高原町)であった。


トチノキの純林(写真1)

美川村竹谷では、古岩屋から南の岩屋寺にかけて、トチノキの純林が広々と繁っている(写真1)。しかし、なぜかこのあたりのトチノミの食習は、まったく記録されていない。


岩屋寺門前で商いをしている、中川カンさんに出会った。カンさんは、幼い時から、村人とともに寺内の清掃、落ち葉拾いの奉仕を続けているうちに、その実直さを認められて、小商いをすすめられ始めたものだった。30年ぶりに再訪してみると、様子は変わっていたが、お孫さんが商いを引き継いでいた。


カンさんの元気な折に聞いた話によると、トチの実穀は、煎じると家畜の腹痛にたいへんよく効いたそうだ。トチノミは、アクを抜いてトチ粉として貯えておいて、モチにして売りつづけてきた。それも、いつか流行らなくなってしまったが、もう一度、作ってみたいと、生き生きと語りつづけた。

第四回 山窩の夫婦連れ トチノミ(2)

各地にあるトチノキは、谷間の家の周りに自生しているのが普通であった。しかし、石鎚山脈のそばの本川村越裏門では、江戸期の終わりに植えた印のある木を見つけた。その樹は、越裏門の元庄屋だった山内家の私有林であった。現地は、山内家の新宅にあたる山中家(国指定重要文化財)の入り口脇にある。林の中には、5メートルから6メートル間隔で、30株近く生えていた。樹径は15センチメートルから1メートル30センチメートルあり、どの樹も枝切りして、木の実が採集しやすくしてあった。もとは広く植えられていたが、村人のこの実の利用が減るにつれて、杉林に変わったといわれている。


越裏門から西の寺川部落との境に、谷間から山の方に向かって一列にトチノキが生えている。この樹は、部落の外の人が、一時的に山に住みついた時の食料であったから、部落では申し合わせで、この樹の実は、一切、採集しなかったという。


私は、この樹林にそって小道を登ってみた。そこで、極めて簡素な小屋から、煙が上っているのを見つけた。そこを訪ねていろいろ聞いてみると、50代の夫婦者だったが、どうも話しに落ち着きがなかった。


次の季節に、もう一度いってみると、跡形もなく彼らは立ち去っていた。村人たちは、あれはポン(山窩:さんか=山地を移動しながら細工物などをして生活していた人)であろう、といっていた。


ポンについては、四万十川の上中流域の大正町瀬里のお宮のそばに住む、元村長の久門さんから、興味のある話を聞いたことがある。毎年、村祭りが近づくと、「今年もよろしゅう頼みます」と、竹細工や、カゴをかかえて中年の夫婦連れがやってくる。


久門さんの家の植え込みから下の方をすかして見ると、河原に臨時の住まいを作っている。この夫婦連れは、お宮の参道にカゴや桶を並べて、お宮参りにやってくる村人を相手に商う。村人は、家に帰って、家の表に修理して欲しいアジカ、カゴなどを出して置くと、翌朝には必ず修理してくれていた。お礼に米や金子を包んでおくと、いつの間にやら始末されていたという。お互いに、無言のままである。


夕方、河原の方を見ると、焚き火のかたわらで河原に穴を盛んに掘り、周りを高くしている。やがて、穴に油紙をかぶせて水を入れる。その中に、焚き火の中の石を、どんどん入れている。焼き石の熱でお湯ができる。河原に風呂を作っていたのだ。道路からは見えないが、ささやかなテント住まいながら、ここでカゴの修理をし、数日すると、飄然と姿をくらます。


久門さんは、松根油から墨に使うくん煙の粉を採取する方法を書いた古文書を、記念にプレゼントしてくださった。これを見ると、昔の里山の暮らしが浮かびあがる。私は、橋を渡り支流の葛籠川沿いに大用(おおゆ)の方へ車を走らせた。

第三回 食材としてのトチノミ トチノミ(1)

数十年後、世界の人口は、63億人から83億人に急増すると、国連食糧農業機関(FAO)が警告している。


砂漠の利用、遺伝子の組み替え作物など、工夫はされるだろうが、容易ではないと思われる。ちなみにドングリの生産性について調べた結果では、10アール当たりの収穫量は約1トンで、ソバの収穫量の10倍にもなる。


野生のままだから、隔年結果、もうすこし長く稔らない年もあるから、改良の仕方によれば、大幅に改善されるだろう。


未利用資源として見放されているドングリ、トチノミなどの種実の活用が、今後、見直されるのではなかろうか。

温帯地域に広く見られものにトチノキがある(図1)。トチノキは、北海道西南部から本州・四国の温帯落葉広葉樹林に分布する。九州にはめったに見られない。


縄文期以降の遺跡にも、果穀がよく見られる。ドングリのタンニンは水溶性で抜けやすいが、トチノキのこのアクは非水溶性でサポニン、アロインを含むから、とても苦くて食用になりにくい(図2)。人々がトチノミをかためて採取したと思われるのは縄文晩期のようである。このころから、ようやくアク抜き法が開発されたらしく、青森県弘前市、南津軽郡や、秋田、山形、岩手、宮城の各県などのほか、最近ではいたるところで、貯蔵穴とともに出土している。また、九州でも、宮崎県高千穂町の陣内遺跡から出ている。


名古屋大学の渡辺誠教授によると、アク抜き技術の確実な上限は、中期前半脇坂式期に属する、長野県葦間(あま)川左岸A遺跡であるという。遺跡発掘の調査が増えるにつれて、後期から晩期にかけて、出土数が急増する。

時代は下がるが、高知県では藩政初期から、カシ、トチノキを大切にし、木の実の採集に務め、年貢の対象であるイネの栽培に精を出すよう、奨励されていた。

私が、トチノキを縄文からの食材として意識をし、調査を始めたのは高知県池川町樫山の伊藤貞尾さん(明治35年生まれ)に出会った昭和57年秋だった。


伊藤貞尾さんがいうには、山向こうの池川町椿山に働きに行くときの弁当として、トチダンゴ(図3)、シレイモチ(彼岸花の球根)を提げていったそうである。これをきっかけとして、四国各地に出かけた。結局、25箇所を調べることができた。

トチノキ(写真1) トチノキ(写真2) トチノキ(写真3)

第二回 現代に残る「縄文」の食文化

縄文時代には、まず土器の出現による加熱調理、アク抜きによる食文化が登場した。シブ抜きのむずかしいトチノミに比べて、コナラ、アカガシ、クリ、シイ、マテバシイ、ブナの仲間は、アクぬきが容易である。落葉樹林の象徴ブナは、生で食べられるし、シイ、マテバシイも食べられる(表1参照)。


(表1)

コナラ亜属 クヌギ 可食 アクヌキ必要
アベマキ 可食 アクヌキ必要
カシワ 可食 アクヌキ必要
ミズナラ 可食 アクヌキ必要
コナラ 可食 アクヌキ必要
アカガシ亜属 ウバメガシ 可食 アクヌキ必要
イチイガシ 可食 アクヌキ必要
アカガシ 可食 アクヌキ必要
ツクバネガシ 可食 アクヌキ必要
アラカシ 可食 アクヌキ必要
シラカシ 可食 アクヌキ必要
クリ属 クリ 可食 アクヌキ不要
シイ属 ツブラジイ 生可食 アクヌキ不要
スダジイ 生可食 アクヌキ不要
マテバシイ属 シリブカガシ 可食 アクヌキ不要
マテバシイ 生可食 アクヌキ不要
ブナ属 ブナ 生可食 アクヌキ不要

他の種類のドングリ類は、いったん木臼でつきくだき、流れにつけてあら皮を除いたあと、石臼で細かく砕いて、ふたたび水に浸しておけば、容器の底にデンプンが残る。それを使って、モチにしたり、焼きモチ、あるいはやわらかい豆腐状にして、食することができる。


このようなモチ状のものは、香川県塩江町小出川流域、徳島県那賀川中流域、海南町海部郡川上流域に、また高知県夜須川中・上流域の山間地では、いたるところにドングリの食風習が残っている。

ドングリ類のアク抜きをして市販しているものを、最初に目にしたのは、高知県安芸市安芸川中流域の栃木部落であった。


物部部村津々呂の小松神社の祭礼では、ドングリモチを古くからお供えしていた。海南町樫谷の西にある王餘魚(カレイ)谷の轟神社でも、付近の集落から盛大にドングリモチが祭られた。そのことは、県下一の轟の滝に劣らぬくらい有名であった。


視点を瀬戸内海の対岸に伸ばしてみると、西中国山地国立公園に含まれる山口・島根・広島三県にまたがる六日町近くの集落で、標高900mを境として低い山稜地にドングリ、より高所ではトチノミを加工していた過去の例を、聞き出した。


今は、このような風習も絶えて、若者はみな岩国か広島の方へ働きに出てしまい、日中、ここに住むのは、高齢者ばかりだといっていた。



ドングリでつくるカシ豆腐

トチモチ

1.収穫したカシの実を、いったん水に浸して俵に詰めて保存。加工する二三日前にむしろに広げて干します。

トチモチ

2.杵でつくと皮と荒砕きされた実とに分かれます。

トチモチ

3.石臼でひいて渋皮を除けたら、蓑でふるい分けます。

トチモチ

4.木綿袋に入れた実を流水に48~50時間さらします。

トチモチ

5.アク抜きが終わったら、3倍の水を加え、ミキサーで砕きます。

トチモチ

6.平釜で煮て、濃褐色になったものを平らな箱に流し込んで完成。包丁で切って盛り付けをします。

第一回 古代の四国

石鎚山系には、今なお美しい自然、景観が展開されている。


燧灘に臨む山ろくから周桑平野を横切り、丹原町を過ぎ、山にさしかかった時、背後の石鎚山系を振り返ると、青々と繁る常緑樹林帯の上に、東西に展開される落葉樹林帯が、秋冬季に見渡すことができる。縄文時代草創期より前の瀬戸内海は大陸につづき、気温も低く、広大な草原、折々に小さな小沼が横たわっていた。このような自然環境、動植物相のもと、古代人は獲物を求めて移動し、生業を営むようになった。

当時の人々は、地球全体の温暖化より、次第に高地へ適所を求めて移動した。これが今は高地性縄文遺跡の数々の出現となり、近年、所々に姿をあらわしてきた。


四国では、不動ケ岩屋洞穴遺跡、上黒岩岩陰遺跡、穴神洞遺跡、ほか数十箇所発見されている。

川は、人にとって身近な存在、自然であり、食料を得る宝庫の一つである。


仁淀川をさかのぼった古代人の跡は、まず下流付近の土佐市徳安に草創期の遺跡、上流に御三戸黒岩岩陰遺跡、ついで上黒岩岩陰遺跡と発見された。これに興味をもった多くの人々の努力により、平成16年現在、仁淀川流域に200近い、おびただしい遺跡の発見となった。


縄文草創期の遺跡から、われわれに当時の食生活をしのばせる資料の数々があらわれる。


オオヤマネコ、ニホンオウカミ、カワウソ、シカ、イノシシ、サル、カモシカ、タヌキ、ついで、カエル、コウモリ、ヘビ、カワニナ、ハイガイ、オキシジミ、ハマグリと、宇和海、土佐湾の交流がしめされた。植物の種実などの報告はなされていないが、縄文晩期の中村貝塚の粘土層から、エノキ、ナラ、イネ、マツ、スギなどの花粉、自然遺物では、コナラ、イチイガシ、クリ、マテバシイ、モモの種子があらわれる。


気候の温暖化につれて本土と四国は、海水の上昇するにつれて切り離され、次第に人々の往来は減少する。九州と本土が海運を通じて交流がなされるのに比べて、土佐側は峻険な石鎚山系、阿讃山脈、剣山山系にはばまれて、独自な空気を生んだ。


新居・宇和郡は、今治、讃岐の豊浜、観音寺の方に親しみを感じ、松山は南予、奥の仁淀村の方に親しみをもつ。四国は、本土、九州とは地理的に隔離されているため、比較的文化の面でも本土に吸収同化されずに残る場合がある。とくに、高知県では近年まで独自の文化、趣味が残っている。


私は、50年前に、たまたま人々の意識から遠のいた近世以前の古代米(それは赤米であり、黒米だった)の調査を思い立った。以後、在来稲を再発見したが、ほとんどは南四国に限られることを知った。


北四国の方では、遍路道ぞいに、歩き回って知ったのは、昭和初期まで、赤ヘンド、へんどよりという香米が伝わっていたことが、唯一の収穫に過ぎなかった。