こんばんは 「ようよう坂町」
今日は坂町の八幡神社の秋の例大祭。
この地区では隣接の矢野町の尾崎神社、海
田町の熊野神社呉市の亀山神社もお祭りで、
お祭り一色の秋の日です。
少し暑いようですが、好天に恵まれ、波穏や
かな海です。
わが横浜地区からは「曳船」の奉納です。
朝6時30分から準備を始め、11時55分
の出船です。朝6時半から曳船の飾付け
が始まりました。湿気を防ぐためにシートで
が行いますが、年に一度のことなので、
飾付けは、以前の写真を見ながら慎重
曳船の船体の内部です。太鼓をたたく
飾付けもかなり進んできました。
船ですので、海の上を走るということで、
ブルーの飾りは波を表しています。
船尾には武内宿禰の刺繍のある飾り
があります。武内宿禰は、古事記では
「建内宿禰(たけしうちのすくね)」、日本
書紀では「武内宿禰(たけのうちのすくね
)」と記されています。
伝説では、実に360歳という長寿を誇る
怪物的な存在です。それにちなんで延命
長寿の神さまとして知られています。また、
不思議な霊能力を発揮する武運長久、
厄除けの神さまでもあります。
「古事記」には、大和朝廷初期に大臣と
して活躍したという伝説的な人物で、景行・
成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に
244年間も使えたと記されており、大変
長寿なお人であります。したがって以前は
聖徳太子よりも人気があって、明治から
昭和の戦前まで何度か紙幣の図柄に使用
されているほどでした。
蘇我氏や葛城氏の先祖とされる人物で、
蘇我馬子一族をモデル武内宿禰という伝説
的な存在は、天皇の中心として古代の政治
で重要な役割を果たしたわけで、そこから
”日本初の宰相”と崇められるようになった
のです。
曳船は、1,749年建造(今の船は平成5年
建造)で、元は「率船」ともいわれ、軍船で
船団を率いるイメージのようでした。
その関係で刀や弓矢、鉄砲などの武器の
飾りが随所にあります。
平和の時代なので、軍船イメージを和ら
げるため曳船となったのでしょうか。
戦後のことです。飾付けが完了した曳船
飾付けが終わったころから、横浜戸主
寄付集めについては事前にせず、当日だけの
受付です。曳船の奉納や打上げにかかる経費
は、若干の文化財保存の町補助金以外は全て
寄付で賄います。寄付者名は貼りだします。
出船を前にして、横浜小学校から小船が到着
です。 5~6年生男女全員63名と教頭先生を
始め、先生方、保護者の方24名が子供たちの
出船式を前にした風景です。
出船式は午前11時55分、横浜西地区の坂
横浜港で、横浜戸主会理事長のあいさつで
次いで大船頭・大船頭補佐の紹介です。
司会は私がしました。
今年は新人の若い人の担ぎ手が多いため、
25年の大ベテランが体験談を話します。
この方は、元広島商業の野球選手で甲子園
にでたこともあります。現在は市内の高校で
野球監督をしています。
音頭が出船音頭を歌い始めます。
まず小船の出船です。小船は今から20年余
り前、曳船を担ぐ若者が減り始めたころ、子
供たちにも伝統行事である曳船に関心を持
ってもらうためと、子供たちが若者になった時
に担いでもらおうと、戸主会が2分の1の小船
今では小学校の運動会でも曳船は、恒例のプ
ログラムとなっていますし、今担いでいる若者
たちは、小船の経験者です。
担ぎ手は両肩で26名。4班に分けて交代で担
手は総勢50人余り、それに小船頭船頭補佐、
大船頭が20人余りで水先案内をします。
で担ぐのはかなり厳しいようです。
小船と大船が一堂にというのは、この出船
を表現しますので、大波の上に乗った時は、
手を伸ばし、頭上にあげます。
波に押される時は、船尾をあげ前に前に素早
く進みます。波に乗る時は船首をあげ、ゆっく
りと進みます。
子どもたちもホラ貝を吹いて、船を先導します。
いよいよ大船のもみが始まります。
船の横揺れは沈没(けがをする危険がある)す
るので厳禁ですが、つい方が痛くなり、肩が外
れます。これをいかに持ちこたえるかです。
波に乗る時は、船首をあげてゆっくりと前へ
港です。無事の帰船を祈っています。
のせて引っ張って行きます。
随分昔は船に乗せ、役場の近くの総頭川河口
まで運んでいたそうです。また以前は道中担ぎ
っ放し(私たちが若いころ)ということもありました
が、現在では台車で運びます。
伝統の曳船が新しいまちの平成ヶ浜地区の
パルティ・フジを通ります。
そして広島県警察学校前です。
この後、いよいよ神社のある坂地区に入っ
ていきます。
好天に恵まれ、「曳船」は坂八幡神社奉納に
向けて、順風満帆の出船です。