こんにちは 「ようよう坂町」
菊池寛の「恩讐の彼方」で全国的に有名に
なったのは「青の洞門」です。大分県中津市の
耶馬溪にあり、紅葉時期は観光客も多いようです。
この「青の洞門」は、諸国遍歴の僧である
禅海和尚が、断崖絶壁の鎖のみで結ばれた
難所で命を落とす人がいるのを見て、トンネルを
掘り、安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって
堀削の資金を集め、石工を集めて「ノミと槌
だけで30年かけて掘り抜いた」といわれています。
坂町にも、「青の洞門」に似た昭和のトンネル物語
があります。畝為吉翁は、明治22年で、少年時代
生まれた上条地区から海側の植田地区へ使い
走りに出ていました。急勾配の山を越えることは
少年だけでなく、地区住民にとって、不便極まりない
難所でした。
そんな時、呉線のトンネルが開通したのを初めて
見て驚嘆。この山にトンネルを掘れば、村の人も
(その当時坂村)楽になるだろうと、秘めた決意を
胸に、わずか16才の時、単身でハワイに渡りました。
以来40年余り、汗と油の辛苦の結果、マットレス
工場を経営、巨万の富みを築き上げました。
終戦を迎え、郷愁による「少年時代の夢」の実現を
しようと、郷里の人たちに「トンネル計画」を送り
ましたが、地区の人たちは、呆気にとられ、半信
半疑でしたが、やがて巨万の蓄財と熱意を知り、
道路改良期成会を結成し、畝翁の帰郷を待ちました。
昭和24年8月に帰国、準備を始め12月半ばに着工、
町は県費助成を取るべく計画したが、畝翁は強く
拒絶。工事費全額を畝翁が個人で出資し、地区
単独工事として、地区住民(戸数300戸余)が総出で
とりかかり、起工以来1年4ヶ月で全通完成を見ました。
トンネルは幅4m、高さ4.5m、長さ110m
で、道路延長は1,400m、上条地区から
植田地区を経て、国道31号まで車の通行が
可能になりました。
トンネルを出ると、そこには青い海が開けて
います。
ために、約300坪のグラウンドと水泳プール
までつくられ、畝翁の心づくしが感じられます。
畝翁は、この事業は両地区全体の汗の結晶
ということで、トンネルの両入口には「協力一致」
その当時のお金で1,300万円、今だと何億に
なるのでしょうか。
畝翁は昭和63年、99才5ヶ月でお亡くなりに
なりました。
今もよくこのトンネルを利用させていただきますが、
まったくありがたいものです。
坂町が全国に誇れる「昭和の青の洞門」
物語でした。