南条あやさんの本を読んだ。
ずっと、読みたかった本。
18にして命を絶ってしまったあやさん。
Coccoが好きとか、共通する部分もあったし、なにより共感する部分が多かった。
それはやっぱり、生きづらさだろうか。
あやさんのように、過激(本人はなんだか面白おかしく、ポップな書き方をしていたけど)なことをしたわけじゃないけど、わたしもアムカ(たいした深さじゃないけどうっすら傷はのこった)の経験や自殺未遂(オーバードーズしたけどしなかなかった)の経験があるから、なんだか、読んでて、わかるなあと感じた。
彼女は生きづらかったんだなぁ。
希死念慮や、鬱はわたしの側にもいつも身を潜めてるから。
生きづらさも、わかるから。
死にたさや、消えたさみたいな分量は人それぞれ違えど、ある一定の苦しさはずっとある。
わたしは、それに打ち勝つことができない。
ずっと、打ち負かされてきた。
この世がマジで向いてねえ。
そんな風に思うこと、たくさんある。
長生きはしたくないし、すでに、この歳まで生きてしまったことが想定外だ。
消えたい、死にたい、ちょっと生きたい、でもしんどい。
そんなぐるぐるの渦の中で私は生きてきた。
歩いても、歩いても。
生きても、生きても、楽にならない。
いつ終わることができるのだろう?
いつ、楽になるのだろう?
いつ、ちゃんとした「しあわせ」ってやつに、ありつけるんだろう。
答えがでない。
わたしは、こんな私にもきっとうんざりしているんだ。
飽き飽きしているんだ。
どうにもこうにもならない自分に、自分がいちばん疲れてるんだ。
心配事、不安な事から逃れることができない。
居場所がない。
あるようでない。
持ってるようで持ってない。
空洞と虚しさ。
虚無、虚無、虚無、、、
わたしはそれでも恵まれているんだ。
そう思っても、
地獄はわたしに近づいてくる。
わたしから、たくさんのパワーを奪う。
気力を奪う。
調子も狂う。
そうして、隙をみせれば、死にたさはわたしの中に入り込んでくる。
このどうしようもなさは、きっと、経験した人にしかわからないだろう。
人間は、どんなにストッパーのような存在がいても、居なくなってしまう。
恋人、家族、友達、お金、才能、名声。
どんなにいろんなものをもっていても。
ふっと、居なくなってしまうんだなぁ。
やっぱりだめだって、考え直して、立ち止まっても、制御装置が不能になることがある。
なにがトリガーになるか、わからない。
ただ、そこに在った存在が、居なくなる。
かなしい、さみしい、つらい、くるしい。
残った人はそう思うかもしれない。
でも、今、いきてる今すら、かなしい、さみしい、つらい、くるしい
ちょっと泣きたい、
そんなわたし「達」は、
どうした、「生」の中に安堵を求めることができるだろうか?
生きづらさと云ふ魔物は
相も変わらず私を噛み千切ってしまうのに!
そんなふうに
思ったよ。
わたしはまだ死ねない
けど
いつ、楽になれるかわからない。
終わりが見えないんだ。