軽い付き合いならいいけど、深く付き合うとなるとしり込みする・・・
そんな人は、ちょっと心に聞いて貰いたいことがあるんだよね。
それは
私にとって、あの人は特別だけど、あの人にとって私は大勢のうちの一人にすぎないんだろうな
そんな気持ちが沸き上がってくることってないかなってこと。
誰かの【特別】な存在でありたい
そんな気持ち。
私は振り返ってみたら、ずーーーっとそんな気持ちを抱き続けてきているんだよね。
例えば、なんらかの先生だったり、友達だったり。
私にとって、その人たちは特別なんだけど、向こうにしてみたら
生徒の一人でしかなかったり
友達の一人なだけだったり
そのたびに、こっそり傷ついてきたの。
だから、こっちも壁を作ってやる。
特別の枠に入れるのは、本当に相手も特別だと思ってくれているって確証が持てるときだけ。
その結果、友情が間違った方向に暴走したこともあったのよ
内容聞いたらこんな目になっちゃうよ
何で私は、誰かの特別になれないんだろう?
この気持ちは結局子どもに向いて、『子どもにとっての特別でありたい!!』っていう子どもへの独占欲となって子育てを苦しいものにしてしまったり・・・
子どもにとっての特別であるために、
誰かの手を借りることを極端に嫌がってしまったり
子どもが他の人になつくのをゆるせなかったり、ね。
心当たりのあることあった?
だとしたら、人付き合いがしんどい奥には、『特別になりたい、のになれない』という葛藤があるのかも。
これも結局は、
『親にとって、私は特別な存在である!』っていう安心感
を子どものころに持つことが出来なかった反動なんだよね。
人間誰もが、『特別でありたい』って言う気持ちはあるんだけど、子どものころに親からそこをしっかり満たせてもらえた人は、大人になってから他人に求める必要はないの。
そこを埋めてもらえていない毒親育ちの私たちは、空いてしまっているところを誰かに埋めてもらおうとしちゃう。
でも、親が子どもに与えるようなものを他人が埋められるはずもなく。
結局、いつも裏切られたような、寂しさのような飢餓感を抱き続けちゃうんだよね。
私自身、誰かを盲目的に信じては裏切られた気持ちになって、いつもいつも傷ついてきたよ。
私は結局、それを旦那に埋めてもらいながら、『自分で埋めていく』って言うことを繰り返して、ようやっと飢餓感から解放されたのかなって思う。
『誰かの特別』になれなくてもいい。
結局は『自分が自分の特別』に出来ない限り、その気持ちからは卒業できないんだ。
そう諦められたとき、人付き合いがガラって変わるよ
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