木田さんへの手紙 | ボンさんの聖子さん日記

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木田さんへの手紙


  イルカさんのコンサートで、キーボードを弾いていた木田さん。私も一緒にくっついて回っていたので、デビューしたころから知っていました。人なつっこい笑顔で、陽気に笑う木田さん。

 どこかの飛行場で、『血液型、何型ですか?』と尋ねる私に、『何型だと思いますか?AB型なんですよ。天才かキチガイかといわれる。ケケケ・・・・・・』と笑って答えてくれました。覚えていますか?ゲームがとても好きで、汽車の旅の時には必ず、小さいテレビゲームのようなもので、遊んでいましたね。子供のように。

 レコードのアレンジをしていただくようになったのは、『シオン』の時から。大学は打楽器科に行っていたというのに、ピアノもフルートもサックスも、とにかく楽器と名のつくものは何でもこなしてしまう、凄い人。そういえば、歌のコーラスもしていたっけ・・・・・・。

 木田さんといえば、思い出すのが伊豆でのレコーディング。確か、アルバム『坂道の少女』の時でしたね。トラックダウン(最終的に、音のバランス等を仕上げる作業)のために行ったから、三日間ぐらいで帰って来たけど、とても環境の良い所で、一ヶ月ぐらい、のんびりレコーディングできたらサイコーだな、なんて思ったのです。休みの時間にはキャッチボールなんかして・・・・・・。

 『坂道の少女』のピアノの弾き語りを教えてもらったのも、この時でしたね、一回、弾いてもらったくらいでは、とても私にはわからず、わざわざ譜面に音符も書いてくれて、それにもかかわらず、間違えてばかりいる私に、笑いながら木田さんはこういいました。

 『呑み込み悪いネェー』

 自分ではわかっていても、やはり他人からいわれると、ショックな言葉でした、。はっきりいってとても悔しかったのです。木田さんに対しても、自分自身に対しても・・・・・・。

 東京へ帰ってからは『坂道の少女』ばかり、躍起びなって練習したのですよ。“木田さんに負けないゾ”なんて、心でつぶやきながら。

 私のイメージは、どちらかというとシンセサイザーのような音ではなくて、生ギターや生ピアノのような、アコースティックな感じだ・・・・・・って、そこまで考えてアレンジしてくださったんですよネ。今こうして、瞳をとじて、『坂道の少女』を聞いていると、そのころのことを、昨日のことのように、想い出すのです。

 イルカさんのリサイタルのための合宿を河口湖で行なった時、私もついて行きました。名古屋、東京、大阪で行なった、はじめてのリサイタルではトリプルキーボードだったけれど、今度は、木田さんと私のキーボード二台に、阿部さんという、若い方に、ベースを弾いてもらおうと、新しい編成で、私のコンサートの練習もやるつもりだったから・・・・・・。

 私は学校があったから、みなさんより一日遅れて行ったんです。そう、イルカさんの子供の、冬馬くんも来ていて、木田さんが“おっさん、おっさん”なんていったりして、みんなで、笑い転げたんですよ。

 三人の編成だと、ステージのアレンジがとても大変で、木田さんは『素敵な朝』がむずかしいナ・・・・・・っていっていたのに、その次の朝、とても信じられない話を聞かされたのです。 

 『木田さんと阿部さんが死んだ』って・・・・・・。

 小雨の降る、タンポポのたくさん咲いてる前で。

 人間って、いつどうなるかはだれにもわからなあい、保証のない生き物なんだなって、少し冷静な考えを持てるようになった時、そう、思ったのです。その時から、私、毎日を一生懸命過ごそう、と思うようになりました。

 旅というと、必ず目の覚めるような黄色の衣装バッグを持ち歩いてましたね。Gパンには、ジャラジャラとたくさんのキーをつけていて。

 報らせを聞いた後、すぐに木田さんの泊まっていた部屋に行きました。ベッドの上には、やっぱり黄色のバッグが置いてありました。

 『エイプリルフールでもないのに、木田さんのいたずらかな・・・・・・』

 いたずらに好きだった木田さん。コンピューターの本を、興味シンシンに読んでいた木田さん。

 あまりにも若杉た木田さん、今ごろ、どこを旅しているのですか?

 願わくは、あの笑い声を、もう一度聞きたいのです。



オマケ



この間の娘の誕生日に

 本人リクエストでこちらに

  出掛けました。ケーキ


『チャンジャ』

『タコわさ』

いずれも娘のチョイスです。ニコニコ


こんなメニューなのにテーブルに

アルコールが並んでいないという・・・。