関西の人気番組『ヤンタン』にレギュラー出演!
イルカさんのカムバックリサイタルが終了し、それまで、緊張しきっていた身体中の筋肉がほぐれ始めたころに、すごい話を聞かされたのでした。
関西でとても人気のある、MBS(毎日放送)の『ヤングタウン!』というラジオ番組に、秋から私もアシスタントのような形で出演させてもらえることになったというから、再び筋肉は緊張してしまったのでした。
DJ・・・・・・というよりは、マイクを前にしておしゃべりしたという経験は、これまであの悲惨な『聖子のニューミュージック情報』ぐらいだったので、ヤンタンのある日は、朝からドキドキしていたのです。
三時間の生番組ーーーといっても、私の声が流れるのは一五分ほど。しかし、その一五分がどんなに長かったか・・・・・・。
コーナーとしては二つありました。ひとつは『聖子のめざせ、大スター!!』といって、ラジオを聴いているみなさんから、どのようにすれば私がスターになれるかということを、ほとんどジョークでハガキに書いてもらい、フリートークでそれを紹介するという内容だったのです。
そして、この時、たこ焼きが好きだというだけで“たこやき娘”という汚名を授かってしまったのでした。
もうひとつのコーナーは『JALミュージックツアー』といって、ちゃんと台本が整っているものでした。それはなんのことはない、書かれている文章をスラスラ読めばそれでいいのです。ただ“JAL”とあるだけに、海外の話がほとんどで、その国の地名など不確かな所が多かったので、あらかじめチェックをして、本番までに何度も読む練習をしなければならかったのです。
練習の時は読めても、いざスタジオに入り、増谷ディレクターの“キュー”を見たとたん、緊張度が最高に達するので、うまく読めないのです。まるで小学校のころの国語の授業のように、立たされるとどうしても思った通りに読めなくなるのと同じことで。
一ヵ月目ぐらいまでは、なかなか“カフ”(ONにすると声が流れ、OFFにすると声は消されるのです)というものに慣れていなくて、カフを下げたまま、生放送だというのにずっとしゃべっていたこともあったのです。トホホ・・・・・・。
スタジオ内には、私一人だけ。台本に書かれた文字を追うことに必死なので、まったく気づかなかったのです。
そのうち、増谷ディレクターが立ち上がって大きく手を振り、口をパクパクさせてる姿が目に入り、その時初めて、カフを下げたまましゃべっていたんだと知ったのでした。あせった私は、すぐにカフを上げました。
『・・・・・・ということなんですよ』
といった感じで、聴いている人は何が『ということなのか』、まったくわからなかったのです。スミませんでした。
また、紙に書いてある文字があまり読みやすい文字ではなかったので、よく読み間違いをしたものでした。
“・・・・・・交通機関として、汽車や人力車・・・・・・”という文章の“人力車”を“人か車”と読んでしまったり・・・・・・。数え上げたらきいりのないほど、ヤンタンには恥ずかしい思い出がいっぱいつまっているのです。
一年間やらせていただいたこの番組は、私にとって大きなきっかけとなったのでした。
深夜放送(PM10:00~AM1:00)のせいか、関西だけでなく、遠く北海道や九州の方からもお手紙をいただいて、ヤンタンを通して本当にたくさんの人と知り合えたのです。そしてラジオについてのたくさんの知識を、ここで得たのでした。
私にすれば、何気ない言葉・・・・・・それがラジオを聴いてる人たちの中には、それによってひどく傷ついてしまったり、または共鳴してもらえたり、視覚のない世界はとてもデリケートなのです。
ひとつの言葉にも、いろんな意味が含まれていて、私は『白』のつもりで話していても、それを『赤』と感じる人もいれば『青』と感じる人もいるんだということを知ったのでした。
毎週火曜日は、このヤンタンのため、新幹線に乗り新大阪まで行き、そこからタクシーで千里にある毎日放送へ通う生活が始まりました。学生鞄を持ったままで。
当時、高校三年だった私は、三時に学校が終了すると、即その足で駅のお手洗いに駆け込むのでした。そして、不良少女Aのごとく、スポーツ・バッグからGパンとシャツを取り出し、きれいとはいえないあの狭い個室で、素早く変身するのでした。それから新幹線に乗り込むのです。セーラー服はコインロッカーに入れて。
三時間10分ずっとひとりっきり。
隣にそくしゃべるおじさんが座った時は、ホントにうるさかった。
『時は金なりという言葉があるけれど、僕はしゃべることは金なりだと思うんですよ。だって、そうでしょ?こういう時だった、せっかくあなたと逢うことができたのに、何も話さずに終わるなんてつまらないと思いませんか?僕は出逢いというやつを大切にしたくてに。あなたはそう思いませんか?・・・・・・』
人に迷惑をかけずにペラペラしゃべるのだったらまだ許せるけど、同意を求められても、こっちとしては非常に困ってしまうのです。
初めは“ハァ、ハァ”なんてうなずいていた私も、いいかげん疲れてしまい、寝たふりをしているにもかかわらず、まだしゃべり続けているのです。
世の中のは、いろいろな人がいるんだなァと思ったのでした。
番組が午前一時に終わると、そのままホテルへ直行。すぐにベッドへもぐり込むのでした。だって、朝一番の新幹線で、東京へ帰らなければならないのだから、だいたいこの日は、四時間ぐらいしか眠れなかったのでした。
六時発の新幹線は、ベッドに早変わり。
東京へ着くと、今度はそのまま学校へ通うのです。
今思うと、すごくハードな生活をしていたように思われるけど、その時は一度も大変だなんて思ったことはなかったのです。
きと、その日を精いっぱい過ごしていたからじゃないかな・・・・・・。
仕事をしていたから、学校のほうがおろそかになっていると思われるのも悔しかったし、他人には味わえない経験をさせてもらえていると思うと、大変なんて思っていられなかったのです。
なんて、偉そうにいっているけれど、実際、水曜日の授業は居眠りばかりしていたのでした。
オマケ
ライブの日のお昼ご飯![]()
晩御飯![]()
まだまだ先の試合ですが、会社で購入している年間指定席をゲットしました。![]()
会場に到着すると奥華子ちゃんが愛してやまない
