音楽の先生を目指していた私
『ねェ、聖子・・・・・・卒業したらどうする?』
仲の良い友だちの間で、こんな会話を交わし始めたのは、高二の夏ごろ。
子供のころより得意科目というのは、音楽、体育、美術・・・・・・と、頭をひねって考えなくても良いものばかり。
『入れるかどうかわからないけど、日大芸術学部の声楽科に行きたいんだ』
音楽の先生にでもなれればいいと思っていた。“大学へは絶対、行きたい”ーーー中学のころからそう決めていた私は、漫然たる将来の自分を描き初めていたのです。
OLにはなりたくない。机に向かって事務をするなんて、私の性格上できそうにない。やはり、自分の人生なんだから、好きなことをして生きていきたい。好きなこと・・・・・・やはり、音楽に関わる仕事に就きたいーーーそう思って、一番身近な“音楽の先生”を目指していたのです。
そして、時を同じくして、信じられぬ話が転がりこんできたのです。あの、フォークシンガーである、イルカさんの事務所のオーディションを受けてみないか・・・・・・と。
そのころイルカさんは、子供を産むため、休業していました。そのあいだに新人を捜したいと、ひとつのきっかけとしていろいろなモデルクラブの顔写真を見ていたオーナーの神部さん、ある一人の女の子に目がとまったのです。
クラウンレコードの小倉さん(現在はロンドンレコード勤務)も気に入り、さっそくその娘一人をオーディションしようと話がほぼ決まりかけていたころ、一緒に見ていたイルカさんがボソッとおっしゃったのです。
『どうせオーディションするなら、同じ年みたいだし、この子も一緒にしたら?』
偶然にも、その娘の隣りに、なんと私の“ニマッ”とした顔が載っていたのでした。
『まァ、一人も二人も同じことだからね』
というわけで、忘れかけていたモデルクラブからこの知らせを聞いたのです。
神部さんたちとお逢いする前、私だけくどいまでにモデルクラブの人から、こういわれました。
『あくまでも、オーディションを受けるだけだからね、君は。これで歌手になれるかという、そんなだいそれた夢は、絶対に見てはいけない。・・・・・・いいね、夢は見ちゃいけないよ』
私が歌手になれるなんて、正直いって思ってなかったし、ただイルカさんに逢って、サインでももらえれば・・・・・・と、軽い気持ちの私でした。が、実際には歌は好きだし、万が一、いや億が一の期待はありました。だから、ここまでいわれると、やはりこの私でも傷つきました。『おまえなんか、どうあがいても絶対になれないのだ!!』といわれているようでーーー。
その日は少し話をしただけで帰り、数日後、今度は二人共、クラウンレコードで歌のオーディションをするということに決定したのです。
“オーディション”といっても、これは一般に公募したものではないのです。自分の歌をカセットテープに吹きこんで送ってくる人も何人かいたらしいけど、生の歌を聴いてもらえるのは、彼女と私の二人だけだったのです。
指定された日、ほぼ合格間違いなしの彼女が都合で来られなくなり、私一人が受けたのです。それが、私の人生において最初の大きな分岐点となっていったのです。
オマケ
女子メンバーが手作りで持参して来てくれたデザートでしたが、チョコレートケーキはアッと言う間にお腹に入って画像無くてすみません。
こちらは『杏仁豆腐』です。
こちらは沼田高校です。
可部線の下祇園駅側から登って何で下山途中に沼田高校が見えるかは突っ込まないで下さい。















