吉原幸子「ふと」ほか | 詩はどこにあるか

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吉原幸子「ふと」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年12月1日)

 受講生の作品ほか。

ふと  吉原幸子

なにか とてもだいじなことばを
憶ひだしかけてゐたのに

視界の左すみで
白い芍薬の花が
急に 耐へきれないやうに
無惨な 散り方をしたので

ふり向いて
花びらといっしょに
そのまま ことばは 行ってしまった

いつも こんなふうに
だいじなものは 去ってゆく
愛だとか
うつくしい瞬間だとか
何の秘密も 明かさぬままに

さうして そこらぢゆうに
スパイがゐるので
わたしはまた 暗号をつくりはじめる
ことばたちの なきがらをかくして

               (夏の墓)

 詩を書くということは、自分の「ことば」をだれかに届けることだが、吉原が、その「だれか」をどう想定しているのかよくわからない。「だれか」は彼女自身のなかの「だれか」、存在していることはわかるが、どういう性格をしているのか、何を考えているかはつかみきれない。たぶん、その「だれか」がどういう人間なのか、ことばをとおしてつくっていこうとしている。「だれか」を生み出そうとしている。そうした行為の「真剣さ」が感じられる。
 こういうとき大切なのは、自分に嘘をつかないことである。
 吉原には自分に対しては嘘をつかないという潔癖な決意がある。
 「とてもだいじなことば」という書き出しのことばに、それが強くあらわれている。
 人間は、ひとに対してよりも自分自身に対して嘘をつくことが多い。「きょう中にこれをしなければいけない。でも、あした朝早くやれば大丈夫」という具合に、自分をごまかす。そういうことが吉原にはない。そう感じさせる潔癖さがあると思う。
 二連目の「視界の左すみで」の「左すみ」へのこだわり、「急に 耐へきれないやうに/無惨な 散り方をしたので」の「耐へきれないやうに」を「無残な」と言いなおすところに、そういうことを感じた。
 詩は、どんどん抽象的になり、わかりにくくなるが、それはそれだけ吉原自身にとって代替のきかない「とてもだいじなことば」だからだろう。読者にわからなくてもいいのだ。吉原のなかの「だれか」にだけ伝えたいことばなのだから。



夜汽車の窓から  堤隆夫

夜汽車の窓から 
かなしみが寄り添っている 一軒一軒の 
町のかそけき灯りを ずっと見続けていた 
そこには 人の悲しみ 哀しみ 愛しみ 美しみ 愁しみが 
そこはかとなく 灯っていた

父たち母たちの かなしみの灯りを 
ずっと見続けてきた
もう 父も母も いつの間にか いなくなってしまった
かなしみを 思い続けて半世紀が過ぎた
詩だけが かなしみの表現だった

思えば もう半世紀以上もの間
こころの欠乏の怖れから 逃れ続けてきた気がする
こころという おそろしい町から 逃れ続けてきた気がする
されど 今まで 幸せも不幸せもなんにも感じなかった

人は なぜに こんなにもかなしいのだろう
この夜の地平線の果てに 朝の希望の泉はあるのだろうか
希望の泉があるのなら 命を賭して
今から何も持たずに 身ひとつで 探しに出かけよう

先人は言った
「静かに行く者は健やかに行く 
健やかに行く者は遠くまで行く」 

もう おそれることは止めにしたい
もう おそれることは止めにしよう

 「かなしみ」は堤にとって「とてもだいじなことば」である。「かなしみ」を、では、どうやって「だれか」に伝えるか。
 「悲しみ 哀しみ 愛しみ 美しみ 愁しみ」と表記を変えている。あるひとは「悲しみ」を共有し、別のひとは「哀しみ」を共有する。それは同じ音をもっているが、違う漢字をもっている。何かしら違うものがある。しかし、「父たち母たちの かなしみの灯り」ということばが象徴するように、ひとりでもっているものではない。吉原の詩が吉原自身を基盤にしていたのに対し(といっても、だれかとつながっているはずだが)、堤は明確に、先人、複数の人間を想定し、時間のなかで他者によって共有されたものを意識している。
 とても印象に残ったのが「こころの欠乏の怖れから 逃れ続けてきた気がする」という一行である。「こころの欠乏」はふたとおりに読むことができると思う。「こころのなかに何かが欠乏している(たとえば、かなしみ、が)」と「こころ」そのものが欠乏しているという意味である。私は、こころそのものが欠乏している(こころがない)を想像した。「こころがなくなってしまったら、どんなにおそろしいか」、おそろしいということさえ感じなくなる。かなしみを感じなくなる。
 堤にとって、かなしみを感じなくなることほど、おそろしいことはないのだろう。
 ひとつのかなしみがなくなっても、別のかなしみがありますように。そういう願いが「悲しみ 哀しみ 愛しみ 美しみ 愁しみ」にこもっているように感じられる。「悲しみ」を感じられなくても、「哀しみ」なら感じられる。「愛しみ」も感じることができる。そこから、すこしずつ「こころ」をひろげてゆき「悲しみ」を取り戻す。それはやがて「希望」をさえ、たぐりよせるだろう。「希望」と書いて「かなしみ」と読むこともできるはずだ。そういうことを可能にするためにも、「かなしみ」には「悲しみ 哀しみ 愛しみ 美しみ 愁しみ」と複数のものがなくてはならない。
 たしかに「おそれることは止め」ることができる。



レンズ  青柳俊哉
 
くものないそら 
水をはむうし、うしなわれたしろいくものしらゆきひめ
湾曲するわきみずの玉むすひ
玉のいなほをとぶたま虫の
扇のようなふく眼のふりそでものがたり
 
くろひめやまの
ぼんやりしてめざましく
くものかこが
ぼやけて 
雪洞のようにそらのとおくへうかんできえる
 
雪をはむうし、みいだされたなみだのようなゆきどけおうじ
千年のたみをよろこばしむらむ

 イメージも交錯するが、音も交錯する。「雪をはむうし、みいだされたなみだのようなゆきどけおうじ」は一読したとき、末尾が何のことかわからないかもしれない。とくに「おうじ」にとまどうだろう。耳のいいひとなら「水をはむうし、うしなわれたしろいくものしらゆきひめ」を思い出し「白雪姫」に対して「雪解け王子」か、と気づくかもしれない。
 音とイメージが一行のなかで交錯するだけではなく、それが行をわたって遠くにまで影響する。