こわい話(12)読売新聞の「狙い」 | 詩はどこにあるか

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 中国軍機が自衛隊機にレーダー照射した問題の「続報」。12月10日の読売新聞夕刊(西部版・4版)には、

中国 「自衛隊と交信」音声公開/レーダー照射 事前通告主張狙いか

 という見出しで、次のように書いている。(番号は、私がつけたもの)

 ①【北京=東慶一郎】中国軍系メディアは9日、中国軍機による自衛隊機へのレーダー照射に関し、中国軍の訓練開始前の中国軍と自衛隊の無線によるやりとりだとする音声を公開した。②訓練について日本側に事前に通告していたと主張する狙いがあるとみられる。

 ①は事実だから、なにも問題はない。問題は、②。
 中国のしていることに「狙い」があるわけではない。
 なぜ、「狙い」ということばをつかったのか。
 「狙いがあるとみられる」と書いているが、これはだれの「見立て」なのか。記者・東慶一郎の「見立て」なのか。

 「狙い」ということばは、「意図」のことであり、「意識」のことである。「事実」とは関係があるが、事実ではない。
 読売新聞は「事実」に、ある種の「色」をつけて、報道している。
 中国は「事前通告」をしていない。「事前通告をしたと主張するために(嘘をつくために)」音声を公開した、と言いたいのである。「狙い」ということばを読んだ読者は、自然に、そう思うだろう。そういう意見に「誘導」されるだろう。
 世論の誘導、これが、読売新聞の「狙い」である。
 中国は、こんなに悪質だという印象を呼び起こすのが「狙い」である。
 わざわざ、見出しにまで「狙い」ということばをつかっている。しかし、はっきり断定できないので「狙いか」と疑問形にしている。
 中国側から抗議が来たとき「狙い、と断定していない。狙いか、と疑問形にしている」と批判をかわすためだろう。
 全文を引用しないが、この記事中に「みられる」とあいまいに書いた文章は、ここだけである。
 ほかは「事実」を書いている。「事実」を書いた上で「狙いとみられる」書き添え、それを見出しにまでしている。
 本来ならば、

中国 「自衛隊と交信」音声公開/レーダー照射 事前通告主張

 という見出しになるべき記事である。本文に「狙いとみられる」と書いてあったとしても、見出しにとらないものである。
 もし、高市が(あるいは小泉が)、そうみているのなら、「首相は、事前通告を狙ったものとみている」と「主語」を明確にする。だれが「みている」か書かずに、こうした記事を書くことは、いまのように緊迫した状況のなかでは絶対に許されない。