こわい話(その5)「告げ口外交」 | 詩はどこにあるか

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 あるサイトで「告げ口外交」ということばを目にした。
 高市発言を問題視した中国が、それを国連の場で取り上げた。そのことをそのサイトでは①「告げ口外交」と呼んでいる。さらに、そのとき中国は国連の「敵国条項」にふれ②「日本を第二次世界大戦の敗戦国として位置づけた」という。
 この書き込みは、不当に中国の印象を不当に傷つけるものである。
 ①高市は、日本の国会で、いわば「宣戦布告」を中国につきつけた。これを国際社会に訴えるのは、中国の当然の権利である。これを「告げ口」と批判することはできない。
 ②中国が「日本を第二次世界大戦の敗戦国として位置づけ」なくても、それは歴史的事実である。そして、第二次大戦の、中国を舞台とした戦争は、日本が侵略したから起きたのである。それを思い出させるために中国は「敵国条項」を持ち出したのではないのか。かつてあった歴史を日本は再び繰りかえそうとしている。この中国の発想というか、論理展開は、とても自然なことである。
 高市が「宣戦布告」をしたのだから、中国は「いま、再び、日本が中国を侵略しようとしている。それを国際世論の力で封じ込めてほしい」と訴えているのである。きわめて穏やかな主張である。

 「告げ口した」ということばでだれかを非難する。それは「告げ口をしたひと」を「卑怯だ」と非難することである。そのとき「何を」告げ口されたか、問題にしないことが多い。ここに、非常に危険なものがある。
 高市が中国に「宣戦布告」をした、という事実がなければ、その「告げ口」は成り立たない。いったい中国の「外交」(国連での訴え)を「告げ口」というとき、つまり「卑怯」というとき、中国を批判するひとは、中国にどんな行動をとれ、というのか。「宣戦布告をされたのなら、応じればいい」というのか。「戦争をすればいい。日本と戦え」というのか。
 そうではないなら、中国の「外交」を「告げ口外交」と呼んではいけない。
 さらに、国連で訴えられたことが「事実」と違っているなら、そのときは高市が国連で「事実」を訴えればいい。中国の批判は間違っている、と主張すればいい。そうしないのは、高市が間違っているからだろう。
 国連で反論しない高市の方が「卑怯者」であり、「臆病者」なのである。

 私には、こういう経験がある。
 あるサイトで、私は、ある人と対話したことがある。そのひとがあまりに差別的なことを書いているので、それを批判した。それが何回かつづいたあとで、彼は「玄界灘に俵巻きにして沈めてやる」というようなことをメールに書いてきた。そのことを、サイトで後悔すると「私信を公開するのはプライバシーの侵害である」と言われた。私は、「私信が『脅迫』である場合は、それを公開する。公開しないと、それが真実かどうかわからないからである。私信は『証拠』である」と言った上で、「玄界灘に俵巻きにして沈めてやる」と言うメールをもらった、と警察に訴えた。あまりにも執拗だったからである。ほかにも「会社に電話をかけて、仕事の妨害をしてやる」というようなメールも受け取っていたし、実際に、電話をかけてきたことがある。しかも、彼が徒党を組んでいるひとのつかってである。そして、そのことを再び公開すると、今度は「谷内は警察にちくった」「告げ口をした」「卑怯者」というような批判を展開した。例の徒党を組んだひとたちといっしょに。
 私が、批判をやめないので、彼は「訴訟を起こす」と言ってきた。「どうぞ」とこたえると、実際に、弁護士を通じて「訴状の下書き」のようなものが送られてきた。私が、それまでの彼のメールなどを「資料」として弁護士に送ると、それっきり沙汰止みになった。弁護士が事実を知って、手を引いたのだと思う。私が、彼が私の住所や電話番号、勤務先をネットに公開している、それを削除してほしいとその弁護士に訴えたら、それは削除され、それっきり何の連絡もないのだから。彼は、自分がしてきたことを隠して、弁護士に「被害を受けている」と頼み込んでいたのである。弁護士は、彼を信じなくなったのだろう。

 「告げ口をした」(告げ口をされた)と訴えるひとの主張は、よく点検してみなければいけない。
 高市が中国のことを「大切な国であり、友好を大事にしていきたい」と言ったのに、それを中国が誤解して「高市発言に問題がある」と言ったのではない。高市が「宣戦布告」をしたから、「日本は再び危険なことをしようとしている」と訴えたのである。
 高市が発言を撤回しないかぎり、高市の発言は「国会議事録」に残る。高市は「そういう発言をしていない」と国連で訴えても、だれも新字はしない。

 「告げ口」が問題になるのは、「いじめ」である。小中学校でいじめ被害者が先生に訴えると、しばしば「ちくった」「告げ口をした」とさらにいじめが過激になることがある。いじめた方が悪いのではなく、いじめられて、それを訴えた方が悪い(卑怯だ)という論法があるが、先のサイトの「中国の告げ口外交」というような表現は、まさに、その類である。
 最近、こどもの「いじめ」だけではなく、「おとなのいじめ」も深刻になっている。「内部告発」をすると、「告発される事実」を起こしたひとは非難されず、「だれが告発したのだ」と「告発者探し」がおこなわれ、正当な告発が踏みにじられる。

 ある意味で、先のサイトの「中国の告げ口外交」と書いたひとは、内部告発者を攻撃するひとの動きに似ている。
 日本は、いつからこんなにだらしないひとばかりが大いばりで主張する国になったのか。
 なぜ、被害者の身に寄り添わないのか。