こわい話(その4) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 高市発言が原因で、中国との輸出入が途絶えたら日本は大打撃を受ける。こうした意見に、日本の輸出入は中国だけが相手ではない、世界に広がっているから問題はない、と何のデータも示さずに、ある若者は言う。彼は、私のサイトで書き込み、そこから「炎上」がはじまれば、彼は有名人になれる、だから書くのだと言っていた。私の書き込みなど、だれも読んでいない。「炎上」しようもないし、そんなことで彼が有名人になれるわけではない。想像力というものがあまりにもなさすぎる。
 そんな若者に言っても仕方がないのだが。類似したことを、多くの高市支持派が言っている。しかし、彼らはデータを示さない。個人的な体験を書かない。そんなものに、意味はない。

 私は、いつでも具体的に、つまり私の生活から書く。
 私は外国人相手に日本語を教えている。いわば「日本語貿易」にあたる。相手は、チリの少年からオーストラリアの外務省の役員までさまざまである。なかには、退職したドイツ人、メキシコの大学教授、日本人と結婚しているアメリカ人もいる。そのうち「定期的」に教えているのは、いまはチリ人、バングラデッシュ人、イタリア人の3人。12月から中国人も予定している。ほかに学校で、不定期に教える生徒もいる。合計で、だいたい5人である(予定の中国人を含めて)。つまり、予定の中国人は、私にとっては、全体のなかでは20%を占める。これは、日本の中国相手の輸出入の割合に、とても似ている。
 で、ここから。
 もし、その中国人が来日できなかったら、私の収入の20%は減るのである。もちろん新しい生徒を見つけ出せばいいのだが、それは簡単にはいかない。相手の求めている日本語が、私の日本語能力を超えていたら、それは対応できない。相手の要望と、私の能力があわないとできない。「輸出」というのは、それを求める相手がいるから成り立つのである。日本のアニメがいくら人気だからといって、アニメ嫌いのひとは読まない。あの村上春樹だって「たいくつだ」と言って嫌うひと(アルゼンチン人)だっている。私は、機会あるごとに「販路」を拡大しようとしているが、むずかしい。
 20%というような「数字」は、まだまだ抽象的で、ぴんと来ないひともいると思う。もっと具体的に書いてみよう。私の受け取る授業料は少し変動するのだが、ひとりだいたい1時間1600円。1600円というのは、一日の食費に近い。コメは、私が買っているものは5キロ、4800円くらいする。つまり、3時間の授業をしないと、コメが買えない。
 私は年金で生活しているが、年金で生活していると、アルバイトではいってくる収入はとても貴重なのである。時給1600円は、とても貴重なのである。そういうとき、「定期的な生徒」(安定した輸出先)というのは、とても貴重である。もし、それがなくなると、授業のかたわら、見つかるかどうかわからない生徒探し、という「営業活動」をしなければならない。私には、12月からの中国人の生徒は、死活問題である。
 私がどんな生活をしているか、そのなかで中国人がどういう重みをもっているか。何も知らないひとに、中国相手の貿易が減っても、日本に影響はない、などと言ってもらいたくない。和牛生産者、ホタテ生産者も、同じように言うのではないだろうか。

 先日、私はある中国人が書いた小説をめぐるシンポジウムのようなものに参加したが、そこには日本人(あたりまえだが)、中国人、韓国人が来ていた。これからは、そういう催しが、むずかしくなるだろう。それは中国のひとや韓国のひとが、何をどう考えているか学ぶ機会が減ることである。そんなことは減ってもかまわないと、例の若者は言うかもしれない。しかし、そこに参加しているひとは、それが減っては困るだろう。私が日本語教師のバイトで一日の食費を稼いでいるように、そのひとたちは、そういう場で活動することで「生活費」を稼いでいる、生活を維持していることもあるだろう。
 さらに、そのシンポジウムに参加したひとたちが宿泊するホテル、食事をするレストラン、その他も、彼らが利用しない分「利益」が減る。それは一回あたりの金額でみると、小さいかもしれない。しかし、その小さいものが積み重なって、大きくなる。一回のキャンセルではなく、それが100回になったらどうなるか。参加者が5人のものではなく、100人のものだったら、あるいはイベントが1万人のものだったら。たぶん、例のわかものは、そんな計算をしない。自分の「ふところ」が痛まないからだ。
 そういう若者が多いこと、増えていることが、ほんとうにこわい。

 私は貧乏人だから、自分に影響がないからといって、生活で苦しんでいるひとに対して、「それは自己責任」というような言い方をするひと(たとえば、中国以外に「貿易相手国」を探さなかった方が悪い、というようなひと)のことばを信じない。自分の生活からことばを発しないひとを信じない。そういうひとは、いつでも他人を踏み台にして、自分さえよければそれでいい、と考える安倍・高市一派である。ひとめ、それぞれの場で工夫して生きている。それを、首相という立場を守るだけのために、踏みにじって平気という安倍・高市を許せないし、そういう安倍・高市を支持するひとの非人間性が、とてもこわい。
 こわいから、私は、こうして悲鳴を上げる。ひとり悲鳴がふたりになり、三人になり、少しずつ増えていけば、それは「怒り」にかわり、「怒り」は「力」に変わると思う。帰ることかできると思う。