高橋睦朗詩作集成Ⅰ(思潮社、2025年10月100日発行)
高橋睦朗詩作集成は全部で5冊になるらしい。意外に少ない、と私は思ってしまった。もっと多いのでは、と思ったが、これは高橋が詩以外に、俳句や短歌、能の台本(?)なども書いていること、活動が多方面にわたっているからだろう。俳句や短歌、その他も、私は「高橋のことば」として読んできた。「詩」と、特別に区別して読んできたわけではないので、少ないなあ、と思ってしまったのだ。「著作集成」ならもっと多くなるだろう。
『ミノ あたしの雄牛』。その巻頭の「菊」。
少年は菊の花のものしずかな風情を愛していた
読み始めてすぐ、「文学」だと感じる。「文学」の伝統、あるいは日本語の「感性の伝統」が一行を支えている。「ものしずかな」がそれである。「ものしずかな」と「風情」は切り離すことができない。ひとつの「文学的コロケーション」である。
これは、そのまま二行目に引き継がれる。
にわたずみの水がほつほつとほのかな湯気を立てている菊日和の午後など
「にわたずみ」は「文学通」でないと意味がわからないだろう。しかし、「ものしずかな風情」を読んだあとなので、「これはきっと文学の伝統をふまえたことばである」と想像できる。「ほつほつ」とも「ほのかな」とも似合うことばなのだろう。
こういうことばは、「意味」を正確に(?)知らなくてもいい。辞書を引いて調べる必要もない。もし調べるとしたら「辞書」ではなく、「古典」を開き、「にわたずみ」ということばを含む「コロケーション」を探さないと意味がない。「コロケーション」のなかで「雰囲気」として広がるものがことばを動かしているだから。ことばを読む(ことばを書く)ということは、「古典(ことばの伝統)を読む」こと、それを「引き継ぐ」、そして、その「ことばを生きる」ことだからである。
高橋は、詩の出発点から、そういう「生き方」をしている。
詩のつづき。
菊の咲く土蔵の壁にひなたぼこする少年のすがたがよく見られた
ここでは「土蔵の壁」が重要である。家の壁ではない。「ひなたぼこする少年」は、菊を愛しているにしても、すこし奇妙に見えるかもしれない。言い換えると、少年らしくない。それは詩のあとで説明される。いわば、これは後半の少年の姿を自然にみせるための「伏線」なのである。とても緻密に「詩世界」がつくられているのである。
四行目。
少年の母はちいさい町工場の女工であった
ここにも「仕掛け」がある。「ちいさな町工場」「女工」。すでに、これは「ドラマ」である。母親が、たとえば(時代は違うが)、IT企業の優秀なプログラマーであったら、この詩は(詩のことばは)動いていかないのである。
母が登場すれば、父も登場しなければならないのだが、その父には、「ちいさい町工場の女工」の影が落ちている。あるいは少年と母に、まだ書かれていない父の影が落ちていた。
ふたりは郊外のささやかな家にほそぼそとくらしていた
少年はひどく無口であった
町の人はかれの胸が父ゆずりであるとうわさした
この詩が書かれた当時「胸」と言えば「結核」を連想するだろう。「ひなたぼこ」、「無口」は、少年がやはり胸を病んでいることを知らせる。胸を病んでいるから、ほかの少年たちのように、駆け回って遊ばないのだ。友達がいないのだ。「無口」は必然である。
「無口」にかぎらず、すべてのことばが「必然」である。高橋は、「必然」から「外」へ出ない。逸脱しない。
高橋の詩を三島由紀夫が絶賛したのは、三島由紀夫は高橋を「後継者」と感じたからに違いない。
少年の父は菊のちりそめた或る日くらい海にはいって行ったのであった
少年の内気そうな目はいつも海を見ていた
少年の頬は白蠟のようであった
この部分では「ちりそめた」と「くらい」という修飾語が重要だ。菊が散るころ、冬の到来をつげる海はたしかに「くらい」かもしれない。しかし、その日が明るかった(小春日和だった)としても、その事実を拒んで、高橋は「くらい」ということばをつかうだろう。高橋は「事実」を書いているのではない。「文学」を書いている。それも「伝統」にのっとって書いている。
菊の花は年ごとに咲き散り 人のいのちもまたむなしかった
菊のちりそめた或る日少年は床に就いた
そうしてだまって死んで行った
菊の花のちってしまわぬうちに 母親はいずこへともなく町を去った
多くの詩人が「私」を主人公にして詩を書くのに対し、高橋は最初から「私」そのものを書かない。「私」は「虚構」のなかで動く。高橋は生きて詩を書いているが、この詩の主人公の「少年」は死んでしまった。
どこまでもどこまでも、「文学(虚構)」である。それは最終行の「ちってしまわぬうちに」ということばのなかにも、「いずこへともなく」にも、「文学コロケーション」が動いている。そして、それは、その直前(終わりから二行目)の「そうして」という静かな接続詞にもつらぬかれている。「そうして」というしずかな接続詞が「いずこへともなく」というしずかな消滅を呼び寄せている。
高橋にとって、「事実」は、私が「文学(虚構)」と呼んだもののなかにこそある。「ものしずか」「ほのか」「ちいさな」「ほそぼそ」「ちりそめた」「くらい」。だれもが知っていることばだが、そのことばの「コロケーション」を「古典」と結びつけて知っている(古典と結びつける)ひとは少ないだろう。しかし、高橋は、「古典」と結びつけて、ことばを動かし、引き継いでいる。生きていく決意をしている。
そういう視点から見れば「にわたずみ」は非常に重要なことばである。ほかの詩人はつかわないかもしれない。しかし、高橋は、そういうことばをも引き継ぐと、この詩で宣言しているのである。
最初の詩集の、その巻頭にふさわしい詩である。