閻連科『聊斎本紀』(谷川毅訳)(メモ2) | 詩はどこにあるか

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閻連科『聊斎本紀』(谷川毅訳)(メモ2)(河出書房新社、2025年05月30日発行)

 つづきを書こう、書こうとしていて、つい書きそびれてしまった。つづきではなく、書こうと思っていたことを、思いついたまま書いておく。いつか、きちんとまとめたい。

 閻連科の文章の特徴は、「終わりがない」ことである。たまたま開いた81ページ。(どこでもいいが、開いたところから、いつでも何か、閻連科の「文体」の特徴を書くことができる。)そこに、こんな文章がある。

 きょうだ(漢字が難しいので、ひらがなで書いておく)がまたベッドの孔をちょっと見てみると、彼はほんとうに寝ていて、顔をしたに向けて目を閉じ、酷く疲れたときの鼾をかき、口元には泡がついて熟睡したときのよだれが流れていた。そして今度は窓を閉めに行き、カーテンを引くと、ベッドの前で自分の袖をちょっと引いて、姉の目の前で胸元をはだけると、胸の谷間を露にし部屋を蘭とキンモクセイの香りで満たした。香りは八月の静かな夜の花園のようで、白く艶やかで、淡いピンク色だった。部屋の中に広がっていって、光を伴った香りの風がゆっくりと流れるようだった。

 「姉の目の前で胸元をはだけると、胸の谷間を露にし部屋を蘭とキンモクセイの香りで満たした。」で十分に詩的で美しい。しかし、その美しさが、美しさゆえに暴走する。爆発する。香りは色に変わる。「香りは八月の静かな夜の花園のようで、白く艶やかで、淡いピンク色だった。」しかも、その色は「白く艶やか」から、すぐに「淡いピンク色」になってしまう。おい、どっちなんだ、と笑いだしたくなる。ちゃんと、整理して書けよ、と学校の先生なら注意するかもしれない。それがさらに「光を伴っ」て、「香りの風」になる。とどまるところを知らない。つぎつぎに連鎖反応で爆発していく。しかも、その「爆発」は一瞬のことなのだ。
 閻連科の「時間」は物理の時間のように一直線に流れてはいかない。(現代物理学では、一直線に流れる時間などないかもしれないが。)閻連科の時間は「流れる」のではなく、一瞬の内部を拡大するようにして動く。感覚のビッグバンとしての時間と言いなおしていいと思う。
 これは、どこででも起きる。
 「姉の目の前で胸元をはだけると、胸の谷間を露にし」には「胸元」が尻取りのように動いている。「部屋を蘭とキンモクセイの香りで満たした。香りは八月の静かな夜の花園のようで」では、「香り」が尻取りされている。何かことばを書くと、その書いたことばのなかで爆発が起こり、内部がいっそう深くなる。ことばの内部に宇宙が広がっていく。ビッグバンは同時にブラックホールである。

 112ページには、こんな文章がある。

 村を出てまた別の村を過ぎ、目の前の村が大きい村で、夜道を行く人が途切れなければ、彼女は麦畑の中から出てこずに、畑の畝沿いに鎮の方向目指して行った。月のなかでも満月は銀に金をちりばめたようで、黄金色の白い光が、はっきりした赤みを帯びていた。

 これではいったい何色かわからないと思う人がいるかもしれないが、色は瞬間瞬間にかわりながら、新しくなる。その「新しくなる」という「瞬間的時間」を書くことで、「瞬間的時間」の内部を「永遠」のひろがりにかえていくのが閻連科の「文体」である。この文章は、さらにつづいていく。

小麦は熟するにはもう四、五日で、夜のしっとりした香りが大通りに満ちていた。道から見ると、湖が繋がったような麦畑は、地の果ての海のようだ。その海面に、一本の波がまっすぐに麦畑の畝に沿って進んでいるのが見えた。メカジキが水面の下を猛スピードで泳いでいるようだった。その波は少女が畑の畝を走っているのだった。夜道に沿ってその波を見ながら大急ぎで追いかけていった。波が突然止まり、しばらくじっとして四方を見回して誰もいないと、彼女はその静かで広大な麦畑から出て、道を早足で飛ぶように走った。

 人間は動く。行動する。しかし、自然は動かない。その動かないものを、閻連科は描写で動かす。麦畑は湖になり、海になり、海には波が立ち、見えないところではメカジキさえ泳いでいる。もちろんこれは自然そのものではない。人間と一体になった自然である。だから自然と一体になった人間と呼んでもかまわないのだが、「整理」しすぎるとおもしろくない。「混乱」のままが楽しい。
 ここには「語る」ことの真実がある。その真実を「喜び」と言い換えてもいい。閻連科の「文体」を客観的ではないと批判することは簡単だが、それでは閻連科の「文体」について何も語ったことにはならない。主観は、客観を超越して「真実」をつかむ。客観ではとらえることのできない「真実」、「喜び」に身を任せるものだけが知っている「真実」に触れる。
 先の文章のつづき。

このとき彼は慌てて隠れ、彼女が遠くまで行くのを待って、また出てきて急いで彼女を追いかけていった。彼女はこうして麦畑と道を行ったり来たりした。彼は隠れてはまた出てきて追いかけた。
 かれは彼女にまかれなかった。

 まるで「彼女」が「ことば」で、「彼」は「閻連科」ではないか。閻連科が「ことば」を追いかけるからこそ、「ことば」は加速し、逸脱しながら、しかし、逸脱することでしか到達することのできないスピードに乗り、さらに突き進む。
 こういう「文体」に対して、あの部分を整理すれば、もっとスピードが出るとか、もっと効率的に目的地に到達できるといってもはじまらない。想像力のないものだけが「ことばの経済学」にもとづいて、「ことばを放蕩する贅沢」をねたみ、批判する。閻連科のことばを追いかけ、自分のことばが破産するのを恐れる人間は、閻連科を読んではいけない。破産して、金から自由になる喜びを知っている賭博師のための賭場が閻連科の小説、彼の「文体」なのだ。