エマニュエル・クールコル監督「ファンファーレ!ふたつの音」(★★)(2025年09月27日、KBCシネマ、スクリーン1)
監督 エマニュエル・クールコル 出演 バンジャマン・ラベルネ、ピエール・ロッタン、地方の楽団員
好きなシーンがいくつかある。どれもピエール・ロッタンが演じている。ひとつは厨房でしゃもじをふりまわしながら指揮をしている。(指揮の練習をしている。)それを動画に撮られて、インターネットにアップされる。たくさんの「いいね」がつく。照れくさいが、いやではない。ふたつめ。これと関連しているが、音楽コンクールの「出番」寸前、前に演奏した楽団員から「見たぞ。厨房でしゃもじをふってるのが似合いだ」とからかわれ、殴り合いになるシーン。好きなことをしている。それを、だれかからからかわれるのはとてもいやだ。とくに、その好きなことが「自分のしたいこと(ほんとうなら、それができたかもしれないこと)」の場合は、とくに。
彼は実際、それができたかもしれない。彼には兄(バンジャマン・ラベルネ)がいて、「養子」としてひきとられた先が裕福で音楽を勉強することができた。その結果、世界的な指揮者になっている。それなのにピエール・ロッタンは裕福ではない家庭にひきとられ、「絶対音感」を持っているのに、地方のアマチュア楽団でラッパを吹いている。「私も裕福な家庭に引き取られていたら……」という思いが、鬱屈している。
この鬱屈が邪魔して、兄弟は、「いい仲」という具合にはいかない。
もうひとつ好きなシーンは、ラスト。バンジャマン・ラベルネは白血病。ピエール・ロッタンの骨髄を移植することで一時は回復したが、拒絶反応が起きてしまった。病苦と闘いながら交響曲を仕上げ、その初演。演奏が終わる。そのあと、その演奏に応えるように、ピエール・ロッタンが楽団を率いて「ボレロ」を演奏する。このラストシーンは、実際には不可能だろう。ホールに観客が楽器を持ち込むことなんてできないから。でも、映画だから、こういうシーンがあってもいい。
なぜ、このシーンが好きか。
ひとはどんなときでも、だれかに対して「おめでとう」と言いたい。「愛している」と言いたい。そして、その相手が肉親にかぎらなくても、とても親しいひとの場合は、とくに。
バンジャマン・ラベルネはピエール・ロッタンに対して、一種の「侮辱」を与えた。(オーディションを受けたあと、「おまえには無理だ」と宣告される)。しかし、同時にピエール・ロッタンがどんなに音楽を愛しているかということを気づかさせてくれた。その兄に対して「鬱屈」を超えて、「すばらしい音楽をありがとう、成功おめでとう。愛している」とことばではなく、行動でしめす。
これは、とてもいいシーンだ。
フランス人というのは、世界一わがままな国民だと思うが、ここにはその「わがまま」がとてもいい形で表現されている。コンサートホールに楽器を持ち込んで、演奏会のあと、勝手に演奏するなどという「わがまま」は許されない。しかし、その許されないこと、してはだめ(非常識)、と言われることをして、それを納得させるのがフランス人のいいところ。
ちょっとどころか、大きく脱線するが。
フランスはパレスチナを国家として承認した。アメリカはもちろん反対している。アメリカに気兼ねしている日本は、もちろん承認しない。しかし、フランスは、「同盟国」のアメリカの言うことなんか、気にしない。自分の「主張」をとおす。(フランスには、アメリカに対する「対抗意識」、ヨーロッパの誇りがある。)
フランスは核を保有している。それは、当時のソ連に対抗して所持したものだが、一方でアメリカに対しても、いつでも「ノン」と言うために所有したものと私は理解している。フランスは、アメリカの言うとおりには動かない。いつでもフランス人がしたいことをする。自分のしていることに誇りをもっている。
厨房での指揮をからかわれたピエール・ロッタンが、相手に殴りかかったのも、この誇りを守るためである。
こういう「わがまま」は、私は、とても好きである。