石川慶監督「遠い山なみの光」(★)(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン1、2025年08月22日)
監督 石川慶 原作 カズオ・イシグロ
ひとには絶対に忘れられないことがある。ものがある。言い換えると、語りたいことがある。「私」という存在である。認知症になってさえ、「私は私である」という意識を捨てきれないし、「私の欲望」を語らずにはいられない。
認知症の場合と違って(あるいは認知症であっても)、ひとは、嘘をつく。「私」を語る、ほんとうの私を知ってほしいときにも嘘をまじえる。つまり、理想の自分をそこに語ってしまう。自分がしたことが間違っているとわかっていても「正当化」する。「自己否定(自己批判)」のときでさえ、人間は自分を甘やかす。嘘をつかずにはいられない。そして、嘘というのは、結局「ことば」である。だから、人間が自分自身に対してどういう嘘をつくか、どんなふうに嘘をつくかということは、これは「小説」のもっとも得意とする分野である。
カズオ・イシグロの小説を私は何か読んだはずだが、よく覚えていない。しかし、彼のテーマが「語ること」であるのは、ぼんやりと窺い知れる。この映画の原作のテーマも「語る」ことである。それを「入れ子細工」にすることで強調している。女が語るのではなく、娘が母の「語り」を書き留める、書き直す、という形で強調している。小説家志望の娘が登場した段階で、この映画は、すべてがわかってしまう。
もし映画にするのだとしたら、小説をそのままなぞるのではなく、娘が母の過去を聞き出すのではなく、母が娘に過去を聞いてくれと切望するという形をとればよかったのだと思う。そうすれば、事実を虚構のなかでととのえなおすときの、人間の苦悩と愉悦が表現できたと思うのだが……。
テーマというか、意図が、あまりにも図式的なので、批判するのも退屈なのだが、ひとつだけ書いておく。
女が河原を駆けるシーンがある。少女を探している。そのとき、地面を這う蔦がからみつく。少女を壊れたボート(?)で見つけたとき、少女の足にはロープが絡みついている。ほんとうは首にまかれていたのかもしれない。(これは、長女の「首吊り自殺」につながる。)ロープではなく、足に絡みついてくる蔦と苦闘しているうちに、その蔦で少女を殺そうと思いついたのかもしれない。何が「事実」かわからなくなる、ということの重要なシーンなのだが(だから、何回も登場する)、この重要なシーンが、実につまらない。蔦が生きていない。蔦は、女の殺意(娘殺し)をあおったのか、それともつまずかせること、速く走ることを阻むことで、蔦は女の殺意を押しとどめたのか。解釈は、どちらともなりたつ。つまり、女は「足に絡みつく蔦の力に気づいて、絞殺を思いついた(計画的ではない)」ということもできるし、「殺すつもりだったが、蔦に絡みつかれて、思い止まった」ということもできる。どういうかは、女の「意識」の問題である。その意識をどう判断するかは、読者(観客)の意見である。あらゆることばは正しいし、同時に間違っている。その問題が、この映画では映像化されていない。単に、女たちの会話(ことば)として再現されているだけである。
カメラがへたくそすぎるのである。蔦にかぎらず、あらゆる存在が、それ自身の「いのち」を生きているということがとらえきれていない。道具・芝居の書き割りになっている。「国宝」のすばらしいカメラワークと大違いである。
余分なことではあるが。
この映画では、女(第一主人公)が、長崎にいた時代、ある女(第二主人公)に会ったという記憶を語るという形式をとっている。記憶に出てくる女は二人である。しかし、その記憶を語っている女「第一主人公」は、実は記憶のなかの「第二主人公」なのではないか。「第二主人公」があまりにもつらい体験をしているので、そのまま語るのはむずかしく、彼女と会ったという形で、客観化するようにして語っているのではないか。つまり、娘に長崎の体験を語っているのはほんとうは「第二主人公」なのではないか。これは考えをつきつめていけば、「第二主人公」は「第一主人公」に自分を語らせることをとおして、「第一主人公」になってしまうということにならないか。ほんとうに長崎を生きたのはひとりの女であり、そのひとりの女が現実を生き抜くためにふたりの女をつくりだした。語る女、語られる女を。「事実」はあるのだが、それは嘘のなかで語られる「真実」なのである。嘘でしか語ることのできない「真実」というものがあるのである。
カズオ・イシグロの原作を読んでいないのでテキトウに書くのだが、小説家なら、私が「余分なこと」として書いた風にも読めるようにして書くだろうなあ、と思う。
たぶんこの映画は、原作はすばらしいが、映画は目も当てられない駄作、といういちばんいい例かもしれない。