こころは存在するか(58) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 大岡昇平「少年」は「幼年」の続編ということになるのか。本屋で立ち読みをすることが多かった大岡が、立ち読みの習慣について、こんなことを思いつく。

本の中に書いてあることが、切実に話しかけて来るように感じ、ひとりでゆっくり読まなければならない、意味をよく取らなければならない、

 この文章の「切実に」というひとことに、私は感動した。全体の「意味」にも感動するが、その意味ではなく、大岡は「切実に」ということばを書きたかったのだと感じた。「切実に」がなくても、「論旨」はかわらない。しかし、「論旨」よりも、「切実に」が言いたいのだと思う。
 「切実に」が他の部分でつかわれているかどうか、私は記憶していないが、ここでは「切実に」が、それこそ私には「切実に」響いてきた。

 どの部分だったか探し出せないのだが、大岡が、若い女の乳首を見る。それは腰巻きの色と同じで、とても驚いた、と書いている。なぜ驚いた。大岡がそれまで見ていたもの、目になじんでいたものは母の乳首で、それは黒ずんでいたからだ。大岡は女の乳首が黒ずんでいると思っていたのだ。
 記憶だけで書いているので、大岡には申し訳ないが、この部分での「切実さ」は母の乳首の黒ずみに対する思いである。母は子供を産み、育てている。その過程で乳首は黒ずんできた。そこには、何かしら、年をとった母に対する思いが「切実に」存在する。そこには、大岡の母は「芸妓」だったことも関係してる。そのことを大岡は、ものごごろがついてから知った。そして、それをどう受け止めていいのか苦悩した。
 それは、こんな部分に、あらわれている。

 私はいまでも芸妓の子であることを売り物にする歌謡歌手などを見るといやな気がする。その歌手が、この時の私のように、どうしても乗り越えならなかったもののことを考えると、「はじめてお母さんが芸妓だと知った時は」とか「お母さんの職業をどう思います」とか質問する司会者を張り倒してやりたくなる。あれは噛まずに呑み込むほかないものなので、冗談事ではないのである。

 「噛まずに呑み込む」。
 そういうものが、ある。
 私は、論理的に考える人間ではなく、そのときそのとき、思いついたままにことばを動かす人間なので、大岡の文章を読みながら、思い出すのは「母の黒ずんだ乳首」と、それにまつわる「いやな記憶」である。「噛まずに呑み込んだ」あることがらである。
 私は、両親が年をとってから生まれたこどもである。「おまえはミルクで育ったんだ」ということを、私が結婚したあとで知った。帰省した時、何かの拍子で、そういう話になった。母乳は出なかった。しかし、私は末っ子で、母の乳首をかなり遅くまでしゃぶっていた記憶がある。そのときは、母がどんな乳首の色をしていたか覚えていない。その母が保護者参観日に、甥をつれて学校へ来た。甥が泣きだした。母は、母乳など出るはずがない乳首を甥にくわえさせ、甥が泣き続けるのをとめた。私が遅くまで母の乳首を放さなかったのは、私が泣き虫だったからだろう。泣きながら、たしかに母の乳首をしゃぶった記憶がよみがえったのだ。私は病弱だったし、たぶん、少しでも気分が落ち着かないと泣いていたのかもしれない。そして、乳首をくわえると、たしかに安心して泣き止んだのを思い出したのだ。母がいるという安心感が、泣き止ませたのだろう。母がそのことを思い出したかどうか知らないが、私は、そういうことを思い出したのである。
 そして、そのとき、私は、とても恥ずかしかった。母がみんなが見ているところで(見えるところで)乳首を出し、母乳もでないのに甥にくわえさせることが、二重の意味で恥ずかしかった。母は年老いている。そのこと自体が、こどもである私には恥ずかしかった。たしか、私が小学五年生のときだった。そして、年老いているのに、自分のしていることを自覚できない母の無知が恥ずかしかった。母乳の出ない乳首を、泣いている甥にくわえさせても甥が満足するわけではない、ということを思いつかない無知がとても恥ずかしかった。
 だが、それ以上に、いやな記憶がある。
 その光景を見た担任の教師が、鼻先で「ふん」と笑ったのである。
 このとき、不思議なことが起きた。私は、一瞬、恥ずかしさが消えた。いや、恥ずかしいのは恥ずかしいままなのだが、それを上回る「怒り」のようなものがあふれたのだ。
 我が家は貧乏だから、甥の両親は「土方」に行っている。甥の面倒は、母がみるしかない。参観日だからといって、甥の母が仕事を休み、こどもの面倒を見ている余裕などない。母は、甥の面倒を見て、参観日に欠席するということもできたのだが(参観日に参加しない両親もたくさんいる)、母は来たかったのだろう。甥が泣きだしたとき、授業の邪魔にならないようにと一生懸命考えたのだろう。それは、母にとっては「切実な」選択だったのだと思う。
 私は、その「切実」を鼻先で笑った教師に対して、怒りを覚えた。しかし、どう表現していいかわからなかった。
 私は恥ずかしさと怒りを、それこそ「噛まずに呑み込んだ」のだと思う。

 「幼年」「少年」を読んでいると、私には書かなければいけないことがある、という気持ちになって来る。