杉本正俊訳・ウェルギリウス『アエネーイス』 | 詩はどこにあるか

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杉本正俊訳・ウェルギリウス『アエネーイス』(新評論、2023年03月31日初版3刷発行)

 ウェルギリウス『アエネーイス』(杉本正俊訳)ではなく、杉本正俊訳・ウェルギリウス『アエネーイス』としたのは、杉本の翻訳を問題としたいからである。私はこの本をイタリアの青年と一緒に読んでいるのだが、翻訳があまりにもむごいところがある。私は原文を読んでいないから「翻訳に問題がある」と批判するのは越権行為かもしれないが、日本語を学習しているイタリア人さえ、「翻訳がおかしい」と感じるレベルなのである。
 私は想像で書くのだが、この翻訳には三人以上が関係していると思う。つかわれていることばのレベルがあまりにも違いすぎる。そのうちのひとりは「仏教関係の用語」に通じているひとであり、もうひとりはとても若いひとである。学生に「下訳」させて、それをチェックもせずにそのままつかっているのかもしれない。それに気がつかないとしたら、新評論の編集者(校閲者)もたいへんな手抜きをしていることになる。
 いくつかある文体(用語の選択)の、どれが杉本のものかわからないが、①「舳艫相銜みつつ船団は」、あるいは矢を「ひょうど放った」のような、ほとんどの日本人の知らないような(つかったことがないような)ことば、イタリアを建国した人物の叙事詩なのに②「閻魔大王」や、その他の「仏教用語」、③「戸籍」のような、当時のヨーロッパにあるとは思えない(いまもないと思うが)ことば、④「フットワーク」「パンチ」というあまりにも現代的な、英語派生のカタカナ語が混在している。こんな混在は、ひとりの人間がやることではない。
 ①は、あまりにも「格調」が高すぎる。松平千秋の『オデュッセイヤ』『イリアス』に匹敵する。もし、その「格調高さ」を目指しているのだとしたら、②以下の訳語には工夫が必要だろう。
 ②③「閻魔大王」や「戸籍」は日本人にわかりやすいように「意訳」したのかもしれないが、わかりやすさを重視するならば「舳艫相銜みつつ船団は」は「船尾と船首を接するようにして船団は」くらいに言いなおせばいいだろう。また、「師範」に「マギステル」というルビをふっているが、ほかにもいろいろなことばにカタカナのルビがあるのだから「閻魔大王」「戸籍」にも「原語」の音をルビをふり、「これは意訳である」という意図を明確にすべきだろう。
 ④は拳闘の場面なのだから、機敏な「足の運び」、「強力な一撃(拳)」でもつうじるだろう。
 イタリアの青年は、それ以外に、トロイアの女たちが船団に火を放ったことに対して批判するときのことば「おばさんたち、これは、ただごとじゃない」の「おばさん」に、「これはひどい」と怒っていた。「女たちよ(おろかな女たちよ)」で十分である。なぜ「おばさん」というような、俗っぽいことばがここに出てくるのか。「舳艫相銜みつつ船団は」というのが「原文の文体」なら「おばさん」はいくらなんでも違うだろう。

 単なる誤植ではなく、こんなでたらめな文体の翻訳が3刷も版を重ねているのはどうしてだろう。だれも本気で読んでいないのだろう。先にも指摘したように、新評論の編集者さえ、全編をとおして読んでいないのだろう。「ラテン文学の最高傑作、2000年の時を経て、今新たな命を宿す」という「帯」のことばに吹き出してしまう。「古典」はもっとていねいに翻訳しないといけない。