パヤル・カパーリヤー監督「私たちが光と想うすべて」(★★★)(2025年07月26日、KBCシネマ、スクリーン2)
監督 パヤル・カパーリヤー 出演 カニ・クスルティ、ディビヤ・プラバ、チャヤ・カダム
冒頭、ムンバイの街が映し出される。夜の街である。カメラは車(バスか)に乗っているひとの視線である。その視線は(つまりカメラの映像は)はひたすら横へ走っている。横へ流れていく。それは、目的地を知らず、ただ外の風景を眺めているこどもの視線である。目的地がなくても(目的地がどこであっても)、こどもには窓の外の風景それ自体が瞬間瞬間の目的である。
この感じが、そのまま全編を支配している。
主な登場人物は女が三人。それぞれに、男の問題をかかえている。ひとりは夫がドイツへ働きにいって、連絡が取れない。彼女には、彼女に思いを寄せる男がいる。もうひとりは恋人がいる。しかし異教徒である。残るひとりは、夫が死んでひとりぐらし。彼女の問題は、男というよりも、男がもっている(もっていた)はずの住居の「権利書」が見つからないことである。立ち退きを迫られている。
この三人にとって、目的地(ゴール)は、あるようで、ない。しっかりと、ここがゴールと目指していけるわけではない。それでも日々の現実はある。つまり、瞬間瞬間というものは常に存在し、その瞬間に真っ正面から向き合うことが「目的」(生きる意味)なのである。
この意識が、非常にしっかりと映像化されている。
車(乗り物)の進行方向が、横ではなく、前後(スクリーンの縦方向)に描かれるシーンも2回か3回あったように記憶しているが、ひたすらムンバイの街の中を横に動く。
これは、見ていて、なんとも苦しくなる映像である。
私は、車に弱い。いまはそうでもないが、こどものときはバスに乗るのがこわかった。窓の外を風景が横に流れていく。見なければいいのかもしれないが、バスガイドがときどき「右手に見えるのは」「左手に見えるのは」と説明する。その「目的地」でもないものが、横に流れていく。目眩がする。気持ちが悪くなる。あの感じを思い出し、私は、ファーストシーンから苦しくなってしまった。
ラストシーン(と、言っていいと思う)、三人はムンバイから故郷へ帰る。そこで、ひとつの事故がある。海で男が溺れ、浜に打ち上げられている。主人公(たち)は看護師なので、その男を助けるのだが、その助けに向かう女の姿が、またまた「横の移動」でとらえられている。徹底している。
で、この映画は、何というか、その男が息を吹き返すという明るい結末なのだが、ある「横の移動」の支配というか、統一のために、私はやっぱり「未来」(目的地)に近づいたという感じがしないのである。どこへ行っても、瞬間瞬間を生きるしかない、というインドの「悠久の哲学」に押しつぶされそうな気持ちになるのである。