閻連科『聊斎本紀』(谷川毅訳)(メモ1)(河出書房新社、2025年05月30日発行)
閻連科『聊斎本紀』は、蒲松齢『聊斎志異』を再創作したものである。これは『聊斎本紀』と『聊斎志異』は「対」である、と言いなおすことができるかもしれない。そのことは、また、あとで書くことにして、黄怒波『チョモランマのトゥンカル』について書いたことを閻連科『聊斎本紀』に当てはめる形で見ていくとどうなるか。
偏見、その1。中国人は金を第一に考える。
これは、このままでは、この作品に当てはまらない。登場人物は「金」を中心に動かない。金次第で、男と寝てもいい、というような話は出てくるが、そこではセックスが中心であり、金が中心ではない。「侠女」に出てくる「私たち二人、今はお互いに貸し借りなしだ」が、「金」を中心に動いている生き方に近いかもしれない。しかし、それよりも大事なのが「科挙」というシステム、「役人」になるシステムであり、それがいわば「金」のようにひとを動かしている。すくなくとも男は、それを手に入れようとする。この「科挙(役人/官僚)」は「皇帝」と「対」になっている。
すべての「金(権力)」は「皇帝」から派生する。こういう点では、「中国人は金を第一に考える」は、この作品の世界でも生きている。
偏見、その2。中国の思想の基本は「対」である。
これは、もうすでに、偏見1のなかで半分くらい書いてしまったが。
「金(権力)」と「対」になるのが「女」である。「男と女」ではなく「権力と女」が「物語」の「対構造」の基本である。「皇帝と女/科挙と女」。それは「男と狐(女)」という「対」になることもあるが、絶対に「狐(男)と女」という形はとらない。そして、これはなぜかというと、セックスで、男が女を支配するようであって、実際は女が男を支配する(女に男が溺れる)という「逆転の構造」が生じるとき、「かね」ではなく、はじめて「いのち」が動くからである。
「逆転の運動」が起きるためには、最初の「対構造」は絶対的に不変でなくてはならない。それは別の言い方をすれば、「対」はいつでも「逆転」を準備しながら動いているということである。「対」は「安定」であると同時に「激動」でもある。ダイナミズムでもある。
この「激動」について考えるとき、閻連科と黄怒波の違いが明確になる。黄怒波においては、「対」が「三角関係」になり、そこから「激動」がはじまるのだが、閻連科の物語には「三角関係」はない。そのかわりに、「時間」が動く。閻連科にとって「いのち」とは「時間」である。
黄怒波の「時間」は「二〇一三年五月一七日午後六時のことだった」のように、乱れずに動く。「時間」は整然と流れるように動く。しかし、閻連科の世界では、「鏡湖」に書かれているように「時間はすべて逆さまです」というようなことが起きる。季節は逆に動いたり、年をとっていた皇帝が若返ったりする。それは「いのち」のありかたの変化なのである。
なぜなのか。なぜ、そんな動きが「時間」のなかに生まれてくるのか。
そもそも閻連科の「対」の特徴は、明確な「対」ではないからだ。「男と女」ではなく「男と狐」という関係のなかにずれがあるが、そのずれどころではない「あいまい」、あるいは「不明の関係」こそが「対」だからである。
洞穴のようで部屋のような、部屋のようで洞穴のようだった(308ページ)
城門のそばの建物や店や街の風景は、どこかで見たことがあるようでもあり、見たことがないようでもあった(333ページ)
こういう感覚を「時間」に当てはめると、こうなる。
まるで嫁に行っていたのは一年ではなく、一日いやほんの一時だったかのようだった。(101ページ)
皇帝はずいぶん長い時間を歩いた。彼には丸々一年にも、少なくとも季節ひとつ分、まる一日分にも感じられた。(381ページ)
一年も、ひとつの季節も、一日も、さらには一時も「同じ」なのだ。「同じ」であること(区別できないこと)が「対」なのである。「対」とは個別のものによって成り立つのがふつうだが、閻連科の場合は、「対」が成立した瞬間に、区別できない(ふたつは「同じ」)になる。
「あっという間」という表現が252ページにあるが、閻連科にとって時間というものは「あっという間」でしかないのである。
「時間」は、そもそも、黄怒波が描いているように規則正しく動いていいかない。
時間は花の香のように過ぎ、花の香のように固まって動かなくなった。(89ページ)
そういう「時間」は絶対に黄怒波のように「明示」できない。あるいは、離れた場所に生きる人間には「共有」できない。「共有」できるのは、その場に居合わせたものだけである。
そして、もし「その場」に居合わせたならば、その「瞬間」に居合わせたならば、それはなんでも「共有」できることになる。「時間」を「共有」したとき、なんでも「共有」してしまう。「共有」だから、だれが何を持っているかというのは関係がない。ひとりが持っていれば、それはもうひとりも持っていることになる。「混沌」がある。セックスがまさにそうである。だれの快感かわからなくなる、というのがセックスの醍醐味である。その閻連科のセックス描写は、
彼女のからだから広がる香りは、夜露に濡れた蘭のようだと思えば、暖かくむっとむせ返るようなモクセイだった。(略)彼女は全身から香りを撒き散らし、彼女の肌は花盛りの花弁の色になっていて、もし触れたら花びらが散って、彼女の皮膚も一緒に落ちてしまいそうだった。(89ページ)
と色と匂いに満ちている。
しかし、それよりも私は閻連科が書き散らす(?)音に驚いてしまうのである。その「音」は、それこそ「あっという間」に消えてしまうものかもしれないが、「あっという間」に消えてしまうからこそ、「聞いた」感じが強く残る。「聞こえない」はずなのに「聞こえてしまう」のである。そう、閻連科は、私たちがふつうに聞く音ではなく、一度も聞いたことがない音を「聞かせてくれる」のである。
草花が開く音が羽毛が宙を舞うようだった。皇帝は自分の足音が花が開く音と星の光、月の光が落ちる音にぶつかって、遠くに流れて行くのを聞いていた。(415ページ)
ほかにも光と光がぶつかる音、果実が実る音など、さまざまな音がある。いつか、全部、引用してみたいものである。
(つづく)