黄怒波『チョモランマのトゥンカル』(徳間佳信訳) | 詩はどこにあるか

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黄怒波『チョモランマのトゥンカル』(徳間佳信訳)(講談社エディトリアル、2025年6月10日発行)

 黄怒波は詩人の駱英。小説を読むのは、初めて。
 とても中国的な、あまりにも中国的な小説である。私は中国のことを知っているわけではないから、私の言う「中国的」は「偏見」かもしれないが、私が考えている「中国」に、あまりにも合致する。
 偏見、その1。
 中国人は金を第一に考える。金で動く。韓国人は思想。日本人は政治(人間関係/人脈)。はっきり覚えていないが、こんな言い方がある。人が死ぬ。墓碑銘を書く。中国人は、金さえ払えば、そのひとが何をしたかに関係なく、とても立派なことを書く。死んでしまっているのだから、何を書いても、もう関係がない。韓国人は、その人の思想に共感しない限り、立派なことを書かない。日本人は、その人と懇意ならば立派なことを書く。懇意でなければ、けなす。中国人、韓国人のことは知らないが、日本人については、そうだなあと思う。墓碑銘にかぎらず、いろんなところで人間関係(人脈)が動いている。
 で、黄怒波『チョモランマのトゥンカル』のテーマは何かは別にして、やはり金が中心になって人間が動いている。都市開発が金の動いている「場」なのだが、金が場を、人間を動かしているとも言える。金の単位が大きすぎて、私には実感がないので、このことはそれ以上書かない。資本家も労働者も、金が動いているから、それにあわせて動いている。これは、まあ、事実だと思う。
 偏見2。中国の思想の基本は「対」である。「一対一」、一組でひとつの世界ができる。中国には、対(二)を超えるもの、つまり三以上は「無限」であり、区別してもしようがない。「一対一」のときは安定して動かない。あるいは拮抗していて動きようがない。三になると突然動き、乱れる。運動が拡大し、止まらなくなる。
 いちばんわかりやすいのが、都市再開発に投資している二つの集団、そのリーダーである。(その都市開発のリーダーが、この小説の主人公だが、これは後に触れることにする。)そして、この二人は、実は、あるひとりの少女をめぐって「三角関係」になる。そのことが「三枚の絵」によってさらに説明される。二(対)のときは安定しているのに、三になったとたんに制御が利かなくなる。少女は死んでしまう。その結果、いまの主人公を中心にした「三」の世界、企画した主人公、それに投資する二つの集団(のリーダー)が動き始める。
 偏見3。「三」を安定させるものがあるとしたら、何か。「家(家族)」である。つまり、中国は「家/家族/家系中心」の世界である。
 象徴的なのが、投資集団の実務をしているのが、それぞれの息子、娘である。投資集団のリーダーの「対」は、その息子、娘という「対」をとおして金を動かす。新しい「対」が「家族」に吸収される形で「対」を安定させる。それぞれの「実務担当者」が息子、娘でなかったら、違う動きになる。
 実際、この小説では、この投資集団の「対」に別の人間が関係してくることで激しく動くのだが、その「対」以外の人間というのが、先に書いた死んだ少女の娘である。そこにも死んだ少女、娘という「家族」が関係してくる。
 しかも、この「死んだ少女の娘」という「第三者(?)」が主人公とペアになり(「対」になり/家族になり、またこどもを産むことで「家系」として確固たるものになる)という形をとる。
 この「新しく誕生した家族(主人公の家)」が、主人公を追い落とそうとしていた二つの投資集団の野望を抑えて、小説は結末を迎える。
 700ページ近い小説をこんなふうに要約してしまってはいけないのかもしれないが、私の頭の中では、実にすっきりした形でストーリーが展開、完結する。そこには、私の知らなかった(私の偏見をはみ出る)中国人は登場しない。
 いや、これは、正しくはない。私が「偏見」にもとづいて整理したストーリーは主ストーリーではなく副ストーリーかもしれない。主ストーリーは、チョモランマに登り、遭難しかけている主人公の救出劇かもしれない。主人公は、二つの投資集団の罠(?)から逃れるために、海外脱出ならぬチョモランマへの脱出(時間稼ぎ)をする。その登山の過程にも、いくつかの「対」が登場する。中国人のシェルパー集団対ドイツ(ヨーロッパ)の登山グループとか。(これは、紹介すると長くなるので省くが、そのなかに狼保護の運動とハゲタカ保護の運動という「対」も登場し、そこにも主人公がからんでくるという「対」の洪水がある。)
 いわば、一方に「金」をめぐる動き、他方に「いのち」をめぐる動きという「対」もあるのだが、なぜ「金」と「いのち」がここで関係してくるかというと。
 読みながら、私は驚いてしまったのだが、ここに「家族」が顔を出すのである。なぜ、黄怒波がチョモランマ登山をこの小説の「主テーマ」にしたのか、主人公をチョモランマにのぼらせたのか。そこには、作家自身の体験も反映されているだけれど、それ以上に書きたかったものがあるのだ。
 627ページに、こんな文章がある。

 登山者にとっては身を置く場所が家であり、山を登ったものはみな家族だ。一人でも失われれば、家族みんなの不幸だ。

 これが「金」中心の「家族」とは別のものである。都市計画のさなかにいるとき、主人公は「敵」に囲まれている。しかし、登山をしているときは、人間は「敵」ではない。すべてが「家族」である。
 長い小説なので、いろいろ省略できるところ、削除しても問題ない部分があるかもしれないが、この部分は絶対に省略できない。「山を登ったものはみな家族だ」はこの小説の「キーワード」であり、黄怒波がこの小説を書いた理由だろう。
 中国は「家族主義」である、「金権主義」である、というのは私の「偏見」だが、その「金権主義家族」を超える「世界」を夢を黄怒波は、この小説に託しているのかもしれない。この「金権主義家族」を超える「世界」をあらわすことばとして、その「基盤」をあらわすことばとして、作者は、金をめぐる動きのなかで「人間性」というつかっていたと記憶している。(ちょっと探してみたが、見つけることができない。しかし,私の記憶に間違いがなければ、どこかに「人間性」ということばが書かれていたはずである。)「家族」とは「金のつながり」ではなく「人間性のつながり」なのである。
 この小説には、たくさんの中国の「古典」が引用されているが「家=人間性のつながり」、そして、その「人間性」の尊重というのは、私の印象では「論語」だなあ。ああ、やっぱり中国人は「論語」を生きているというのは、もうひとつの私の「偏見」である。

 ほかにも書かなければならないことがあるのだが、それはまた後日、書くかもしれない。