大岡昇平「幼年」に、大岡が生まれた場所を訪ね歩く場面がある。
母は産婆を読んで、家でお産をしたに違いない。私がこの地点で、この世に産み落とされたことは間違いないのだが、私の意識にその記憶がない以上、その事実は私にとって存在しないと同じである。
私は、この考えに、とても納得がいく。
私は、父方の祖父母も母方の祖父母も知らない。父方の祖母については、父の兄(父は次男だった)の妻が、あるとき母と話していて「姑は、とても厳しくて、いつも床の雑巾がけについて叱られた」と語るのを聞いた記憶があるが、それが唯一の記憶で、もちろん「見た」ことはない。だから私には、自分にとっての「祖父母」というものが存在しない。もちろん、血縁関係上は存在するのだろうが、それは「論理的」な存在にすぎなくて「実存」ではない。
だから私はよく「私の三代前はサル」と言うのだが、これは「誇張」ではない。それは、「私には祖父母が存在する」と同じように、純粋な「論理」である。「論理」であるから、それは、どちらも正しいし、どちらも間違っている。「論理」ということばをつかってきたが、そんなものは「解釈」なのである。
ここから、飛躍する。
6月30日に「現代詩講座」があった。どういうわけでそんな話をしたのか思い出せないのだが、私は、だれかの詩について語っているとき、突然、ピカソの絵の話をしたくなった。
ピカソの絵は、いわゆる「写実」とは違う。そのとき私が思い出していたのは、台所で猫が魚をくわえている絵である。右か左かは忘れたが、片方は魚を手に入れた喜びで輝いている。もう片方は人間に見つかってしまって「しまった」という目をしている。感情が、分裂して、そのままそこに存在している。それを見たとき(50年ほど前、東京で開かれたピカソ展)、私は笑いだしてしまった。そこには「事実」があった。「事実」はいつでも、私を驚かせる。そして、私は「事実」に出会ったとき、笑いだしてしまう癖がある。
ピカソの絵は、「写実」の技法(論理)によって修正されていない。
では、それは「間違っている」のか。
もしかすると、「写実」的に「修正」した絵、簡単に言えば学校で習うデッサンに忠実な絵は「正しい」のか。もしかすると、「写実」(修正された絵)の方が「間違っている」かもしれない。「写実」した絵の方が「正しい絵」と思われているのは、その絵の方が「流通」させるのに便利だからであろう。多くの人に受け入れやすいからだろう。共有されやすいからだろう。
しかし、もしかすると、それはだれかが押しつけた「修正」かもしれない。ピカソの見た猫、その絵の方が「事実」(ほんとうの姿)かもしれない。
どちらを「正しい」と思うかは、「解釈」にすぎないのだ。
私の書いていることは「極端」か。そうでもないと思う。
いわゆる遠近法(一点透視画法)が日本に入ってくる前、日本の絵の描き方は西洋のものとはずいぶん違っていた。平安朝の、宮廷を描いた絵など、近景も遠景も人物の大きさはかわらない。天井がなくて、高みから見下ろしながら部屋がつながっている。途中に、雲を描いて、真中を省略したりしている。それを、長い間「正しい描き方」と日本人は理解していた。そして、それは単に「理解(解釈)」ではなく、それが「事実」だったかもしれない。そこには「描くときの論理」がまぎれもなく存在していたはずである。「論理」があったから、それは多くの画家に共有され、定着したのだ。
何を「事実」とするか。それは、ひとによって違うのだ。