池井昌樹『理科系の路地まで』(32) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『理科系の路地まで』(32)(思潮社、1977年10月14日発行)

 「沖積層になる晩」。

おう鳴っとるわい管楽かなんかわからん楽音の
ぐわらんしゃんぐわらんしゃんわめいとるわい
わいめとるのになんで聞こえぬ

 「管弦楽」でなく「管楽」。「楽」は少し進んで「楽音」ということばのなかにやってくるが、この音楽的操作はなかなか楽しい。さらに「ぐわらん」がおもしろい。私はためされているのかもしれない。つまり、文字通り「ぐわらん」と読むのか、歴史的仮名遣いの読み方をまねて「がらん」と読むのか。
 那珂太郎なら別な表現になったと思うが、あるいは草野心平でも違う音楽になったと思うが。
 「わめいとる」もいいなあ。
 那珂太郎は、肉感的ではあっても肉感的ではない。何か、聴覚を刺戟してくる音なのに、池井の音は「聞く」よりも「発生する」音であり、それは「喉」の音楽である。

 「解剖写真」。

まなじりをあげると
きみどりの無花果の葉のむこうがわに
ガリバアの手のようにむうわりとにくをひらいて
ねむりにはいってゆけそうなそらいろのそらがあり

 「無花果」をどう読むか。「いちじく」と読むのが一般的だろうが「む」ではじまる音で読みたい気がする。「むうわり」の「む」が、そう思わせる。「むうわり」は造語だろう。そうであるなら「無花果」にも独自の読み方があっていいような気がするのである。「む」の音の交錯は「ねむり」の「む」のなかに侵入する。その「侵入する」という印象が「はいってゆく」にもつながる。
 音と意味が、何の関係もなく、関係になってしまう。結びついてしまう。

 「門構えへでる帰路」。

かみあわさらぬ夕方
醤油工場の大門の
登録商標が割れていて
家畜慣れした錠が取れている

 これは池井が見た「実景」だろう。そう感じさせるのは、ここには余分なものがないからだ。
 このあと、ことばは「実景」は、「心理的実景」というか、池井だけの実景にかわっていく。

 しかし、(と、ここで「しかし」をつかうのは、正しい「しかし」のつかいかたではないが)、この『理科系の路地まで』という詩集は不思議だ。
 前半の中学生、高校時代の詩は、とてもおもしろい。しかし、大学へ入ってから(東京に棲むようになってから)の作品は、あまり魅力的とは言えない。これは池井自身も感じていたのだろうか。卒業直前、卒業後の作品が少なく、途中に中断もある。「門構えへでる帰路」も、大学を卒業後の作品である。