池井昌樹『理科系の路地まで』(33)(思潮社、1977年10月14日発行)
「未刊詩集の題名」。池井の詩としては、めずらしいタイトルではないだろうか。
宿駅集のわけはいえない
私には迷いみちが似合う
しかしながらおのおのは確かにねづよい宿駅である
この書き出しで私が「わかる」のは「確かにねづよい」の「確かに」だけてある。ここでは池井は「確かに」ということばを書く必要があったのだと感じる。「ねづよい」の方が意味的には強いが、「確かに」には意味を超える「確信」がある。池井は「確信」を書いておきたかったのである。
塩気まじりの土を掘る
掘りかえす
汽車が来ぬうち
納骨堂を建立する
汽車はとおるな
せいいちもあしかもとれる
まひるの暗い海浜地方を
汽車はとおるな
さびついた線路がのこされていて
私はいちんち骨をうずめる
土を掘る
「掘る」だけでは不十分で「掘りかえす」。確信するために。「汽車が来ぬうち」を「汽車はとおるな」と言い直し、もう一度言う。池井はしなければならないことを、「確かに」知っているのだ。
「とじこもる」にとじこめられている声を聞くのは、つらい。
卵綴じ 籠もる
あたらよの 十五夜の 満月よ 満月のをもに さし掛
かる 松が枝よ 松が枝に 成長してゆく 蓑虫よ
べらんめえ まっかのぴえろの くちがあくぞ
「蓑虫」を池井だと思って読んだ。
「かえりゃんせ」。
枝のない
電信柱に
錆びた足掛かりが生えている
街の在り処や
なくなった日日が貼り付いている
ふるい標識に
まよいつかれた影が
耳をしまって
こっそりとかくれにゆく
さわれないから
おがんでごらん
夜の電信柱に
罅がある
この日、池井をささえていたのは「電信柱」だけだったのかもしれない。しかし、「電信柱」があってよかったと思う。
「さわれないから/おがんでごらん」。だれに言われたんだろう。だれから聞いたんだろう。池井が、自分自身に言い聞かせているのか。